(どうしてだ、なんで…。)

マカの気持ちを聞いたときから、彼女だけは傷付けてはいけないと思っていたのに。
きちんと断らなかった自分が悪い。
でも今はそんな事を考えている暇はない。

近づいてくる魂は紛れもなくマカのもので、もうすぐ側に居るのだから。





ドウ





頭も感情も全てがぐちゃぐちゃだと分かるのに、何故か行動は淀みなく、言葉にも濁りはない。
自らの右腕はソウルの喉を締め上げて、その手には明確な殺意がにじみ出ている。
これも自らの意思なのか、キッドにはもう分かっていない。
行動に思考が追いつかないが、ただ一つ確かなものがあった。
脳裏にちらつく、ツインテールの少女の笑顔。

「ソウル、殺すつもりで抵抗しろ、と言ったな。」
「…っぅ…ぐ……っ」
「俺が、本気で抵抗しないとでも思ったか?」

締め上げる腕に力が篭る。
もうあと少し、力を入れれば、喉がつぶれるだろう。
ミシっと、肉を潰し、骨が軋むような、くぐもった音が室内に響いた。

「マカを、傷つけたら赦さないと、俺は言った。もう遊びは終わりだ。…服を着ろ。」

告げて手を放せば、ソウルの体がソファに沈んだ。
キッドはそれを一瞥して、ソファから身を起こし、自身のシャツとジャケットを直す。

「がはっ!……ぐっ…げほっ…」

気道を確保して一気に吸い込んだ酸素により、大きく咳き込むソウルを尻目に、
キッドは乱された衣服を簡単に整えて、玄関に向かって歩く。
幾つかボタンが見当たらないが、とりあえず体裁が整っていれば良い。
なんとか服装をごまかすと、まるで計ったかのように玄関の扉が開いた。

「いらっしゃい、キッドくん。」
「やぁマカ。」

おそらく彼女もその感知能力で、キッドの来訪を知っていたのだろう。
玄関の開口と同時に声を掛けられた。

「ソウルは?」
「奥に居る。」
「そっか。あれ?もう帰っちゃうの?」
「あぁ、リズとパティも腹を空かして待ってるからな。」
「残念。今日はお土産があったんだけど…また次だね。」

玄関でマカと体を入れ替えて、キッドは部屋の外に出る。

「ソウルー!キッド君帰るって!見送りしないのー?」
「良いんだマカ。どうせ明日死武専で会う。またな、ソウル!」

奥のソウルに聞こえるよう、そしてマカに自然に見えるように、
キッドは努めて自然に声を張る。
声が震えないように。
未だ細かく震える、ソウルを殺そうとした右手を左で押さえつけながら、頬には笑みすら浮かべて。

時間としては十分稼いだ。
ソウルに少しでも理性が残っていれば、今頃衣服を整えているだろう。
もしそうでないなら、本気で殺す。
それほどに念をこめて意思を示したはずだ。

「じゃあな、マカ。また明日。」
「うん、明日ねキッド君」

玄関が閉まる。
マカの笑顔と、キッドの間は鉄製の扉で隔てられる。

扉が閉まった瞬間、キッドはその場にへたり込んだ。
鉄の塊の向こうには、少女の声が聞こえてくる。
漏れ聞こえてくる楽しそうな談笑は、マカに何も気付かれていないことを表していた。

「…ふっ……ぅ……ぁ…どうして……」

マカは傷つかなかった。けれど、気が抜けた途端、涙が溢れて仕方ない。
彼女の顔を曇らせたくない。そう望んで、望んだ通りに最悪の事態は回避したはずなのに。
後から後から流れる落ちる涙は止まらず、横隔膜が痙攣し始める。
扉の向こう、笑顔の少女に気付かれないよう、声が漏れないように、右手で口元を覆う。

「ぅっ……ふ……………っっく……」

コンクリートの打ちっぱなしになっているマンションの廊下に、涙が滴り落ちた。
水分が瞬く間に吸われ、痕跡としてうっすらと輪郭が残るだけ。

(嗚呼…まるで、残滓のようだ…)

そのシミを見て、泣きながら、でも自嘲するようにキッドの顔は笑っている。

『明日ねキッド君』

マカの笑顔が何時までも何時までも、瞼の裏で繰り返し流れる。
壊れたアナログフィルムのように。
何度も、何度も、何度も―――。

「"また明日"…よく言ったものだ、俺も。」

もう二度と、死武専に行くつもりも、仲間に会うつもりもないのに。

「俺は、サイテーなクズ神だ…」

涙は止まらない。けれど横隔膜の痙攣は治まりつつある。
冷静になってきた証だろうか。

キッドはゆっくりと立ち上がり、そして闇に紛れるように、死刑台屋敷へ向かった。





『なぁ、キッドぉ。任務はいいケド、またえらく急だよなー』
『おねーちゃん、まるで出張嫌がるサラリーマンみたいだよ!』
『あーハイハイ。ゴメンよ愚痴っぽくて』

姉妹のやり取りを左右に聞きながら、キッドは進むスピードを緩めない。

「気を抜くなよお前達。これでも一応、三ツ星職人の任務なんだからな。」

苦笑しながら、ベルゼブブを滑らせ、かつて"町"だった廃墟を器用に進む。
左右の手にはリズとパティを携えて周囲を警戒するも、研ぎ澄まされた魂感知能力は、敵を察知してはいなかった。

『なぁキッド、しかもこの後もびっしり任務詰まってるんだろ?』
「そう言うな。仕方ないだろう。上位職人が足りんのだ。」
『キッドくん、キッドくん!お土産いっぱい買って帰ろうねぇ!』
「…あぁ…そうだな…」

その後も続く姉妹のやり取りに、キッドは胸が苦しくなる。
ソウルにもマカにも会い辛くて、逃げるために任務をねじ込んだ、など告げることは出来ない。

逃げた

その一言がキッドの心に重く圧し掛かる。
逃げてはダメだと、頭では分かっていても、どのような表情でソウルやマカに会えば良いか分からない。

何も知らないマカと、おそらく酷く傷つけてしまったソウル。

今更キッドがソウルに対し、何かフォローできる立場に無い。
マカを優先するあまり、ソウルの言葉を頭ごなしに否定して、話を聞こうともしなかったのは、
他ならぬキッド自身だ。
これが何を意味するのか、キッドも理解していた。
ソウルの言葉も気持ちも否定した。拒絶の前に、"気のせいだ"と決め付けて、遠ざけた。
酷いことをした。ソウルの心を踏みにじって、何様のつもりだと、何度振り返ったか知れない。

何も知らないマカと、マカの気持ちを知らないソウルと、全てを知ってしまっているキッド。
どの面下げて二人の前に立てるだろう。

(そう、気のせいだ…。気付かない振りをしてしまえば良い。
ソウルの言葉が…"見られても構わない"と言った言葉が、震える程に嬉しかった、など。
一瞬、マカに見られるその光景を思い描いて、喩えようの無いほど気持ちが高揚した、などと。)

キッドの思考は埋め尽くされていたが、それでも感情には表さず、冷徹に魂を狩り続ける。
機械的に、ただただ、任務をこなすため。
何も考えないように、考えられないように―――。





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