予兆


身体と髪を洗い、シャワーを使って泡を流す。
豪が追い焚きしてくれた風呂は、烈の身体を芯からあたためた。
湯に浸かって、烈はぼうっと思い出していた。



あれは、豪が中学三年の夏頃だったろうか。
初めてラブレターを貰ったと、血相を変えて烈に相談に来たのだ。
豪にとっては"青天の霹靂"といったところだったようで、酷く慌てていたのを、烈は今でも鮮明に覚えている。
そして、烈自身、己の抱く想いに気付かされる切欠になった事も。

兄弟としてずっと過ごしてきた。
当たり前のように一緒に居て、ずっと一緒に過ごしてきた。
帰る家は一緒だったし、趣味も同じだった。
学校も一緒に登下校する程に二人はいつも一緒だった。

反発する時もあるが、それは少年特有の近親者に対する『意地』や『見栄』と言うもので、
ケンカすることすらスキンシップの一部だったように思う。
それが、"豪がラブレターを貰った"という事実によって、自身の中で崩れていくのを、烈は感じた。

豪が中学三年、烈が高校一年。
通う学校も異なれば、部活動も異なる。
共通の趣味だったミニ四駆も、二人で走らせる時間はほぼ無くなった。
自然と二人で居る時間は減って、気付けばお互いが何をしているのか、何に熱中しているのか、
分からない状態になっていた。

世間一般で言えば、それが普通なのだと思う。
だが烈は、この時それを『嫌だ』と思ってしまったのだ。

豪が離れていく。
豪が誰かのものになる。

そう考えると、胸の中が酷くざわつき、苛々とした感情が込み上げてきた。
それと同時に『豪を誰にも渡したくない』という、独りよがりな感情も抱いた。

『ラブレターの返事はどうしたら良いか?』と豪から持ちかけられた相談に、
烈はどういったアドバイスをしたのか覚えていない。
ただ、その後、豪がラブレターを貰った女の子と何があったという話も聞いていないから、
おそらく付き合っては居ないのだと思う。

小学生の頃はやんちゃで乱暴者といったレッテルが貼られていた豪も、
中学校生活の終わりに近づき、身長もぐんと伸びたし、顔つきも大人っぽく、男っぽくなった。
高校に上がる前に、豪と繋がりを作っておきたいと考える女子は、多かったようだ。
その後も、何度かラブレターを貰ったという話を聞いていた。

烈の通う進学校に、豪もスポーツ推薦枠で入学する事になった時は驚いたが、
胸中、どこかほっとしたことも確かだった。
これで、少なくともまた2年は同じ学校に通うことになる。
定期考査の予定も、学校行事も、同じスケジュールだから豪に時間を合わせることが出来る。
学校が分かれていたその分を、ここで埋められるかも知れない。そう思っていたのだが。

学校生活に慣れ始めた頃、豪は幼馴染のジュンと付き合い始めた。
その事を告げられ、烈はジュンに凄く嫉妬したことを覚えている。
同時に、もう豪の交友関係でイラつくことも無いのだ、と安堵した事も確かだが。

烈の知らない、得体の知れない女と付き合われるなら、
ジュンのほうが随分とマシだ。
ジュンはさばさばしているし、精神的にかなり大人だから、きっと豪をひっぱっていける。
そう思ったからだ。
烈もジュンの事は良く知っている。
ジュンも烈を良く知っている。幼い頃からの付き合いとは、失くしたくない物だと、
この時ばかりは痛感した。

暫くすると、豪が良くジュンを連れて帰るようになった。
夕飯前には帰るが、それでも帰宅してからの小一時間ばかり、豪とジュンは一緒だった。
二人で豪の部屋に行くこともあるが、大抵は三人で他愛ない会話をして過ごした。
当初、三人で居ることが苦痛でなかった烈も、
『今日は授業で豪がどうだった』『ジュンはうるさい』などと眼前で繰り広げられては、参ってしまう。
まるで夫婦漫才のような会話に、音を上げたのは烈だった。
受験の時期を迎えるから、と早々に塾を決めてしまい、学校からの帰宅後は塾へ篭るようになって、今に至る。

「…別に…ジュンちゃんが嫌いって訳じゃ…ない…
僕は…逃げたんだ……」

自身に言い聞かせるように、烈は乳白色のお湯に顎のラインまでしっかり浸かる。
考え事をしていたら、少々のぼせてしまったかもしれない。
どこか他人事のようにそう考えながら。

「一体、何から逃げるって言うんだ…。
豪も、ジュンちゃんも普通なんだから。僕が…僕だけが、普通じゃない、それだけだ。」

何かを振り切るように小さく呟く。
ただ、浴室で呟いたその言葉は、思ったより響き、エコーとなって烈自身の胸に突き刺さった。





「星馬先輩!」
「…松下さん…どうしたの?」
「あの…実は、これ…」

学校の渡り廊下。
授業も終わり、これから生徒会の集まりがあるため、烈は教室が並ぶ棟とは異なる、
特別棟へ移動している最中だった。

声を掛けられて振り返ると、同じく生徒会で書記をしている後輩…つまり、豪と同じ学年だ。が立っていた。
手には何やら可愛い封筒を持っている。
ぱっと見たところ、ラブレターという奴だろう。

「…これ…?豪に渡せば良いの?」
「…はい…できれば…。」

こういった事は、今回が初めてではない。
男子ばかりとつるんでいて、なかなか声を掛けるタイミングが少ない豪ではなく、
烈経由で想いを伝えようとする子は、少なからず居る。

「松下さん…こういう事は、本当は自分で伝えた方が良いと思うよ?
それに、豪には彼女が居るって聞いてるから…僕から渡したとしても…」
「分かってるんです…。
星馬先輩には甘えることになってしまうんですけど…でも、どうしても伝えたくて。」

ただ、手紙を渡すタイミングがなかったと項垂れる少女を見て、烈はなんと声を掛けて良いやら分からない。
けれどこの少女の心の痛みは分かるような気がした。
たとえ彼女が居ても、自分の気持ちを伝えたい。それは、烈にも良く分かる。
烈だって、どんなに想いを告げようとしたか分からない。

「…羨ましいな…君の勇気が…」
「…え?」
「なんでもないよ。一応、預かっておくけど…。
豪からアクションがあるって、あまり期待しないで。」

烈の言葉に、嬉しそうに頷く少女は、烈を追い越して先に生徒会室へと足を向ける。

「ありがとうございます、星馬先輩!先、行ってますね!」

先ほどの必死な雰囲気とは違って、今は軽やかに先を行く少女を見送り、
烈は言えないでいた言葉を続けた。

「…ごめんね…豪は、僕から受け取った手紙、読まずに僕の目の前で破るんだ…。」

烈は酷く陰鬱な気持ちで生徒会室へと足を運ぶ。

あれは何時だったか。
ジュンと付き合う前だったように思う。
気は進まなかったが、あの時も烈は豪宛の手紙を預かっていた。
自分の弟ながら、よくよく人気がある、と感心すると同時に寂しく思いながら、豪に手紙を渡したのだが。
その時豪はひどく激昂した。

『なんで手紙なんて預かって来るんだよ!』
『こんな手紙要らない!』

まるで癇癪を起こした子供のように、理路整然とした説明もなく烈は責められたが、
読んでほしいと、何とか豪に手渡した。

烈は烈なりに、預かった責任を果たそうと必死だった。
そんな烈を見て、まだ幼さが強く残る顔で、豪はとても悔しそうな顔をしていた。
唇をきつく噛み締め、地団駄でも踏みそうな程、怒り心頭といった感じだったが、
何とか折れて手紙を受け取ってもらえた。

が、その場で、封も切らずに破り捨てたのだ。
何度も何度も重ねて破って、怒りをぶつけるようなその行動に、烈自身、目を瞠った。

それ以降、烈は豪宛の手紙は受け取らないようにしているのだが、
中には強引な女生徒もいる。
どうしても断れない時は受け取ってしまうのだが、豪に渡すと同時に、豪はその場で破り捨ててしまう。
これ見よがしに破り捨てられる手紙に、烈はどうしていいか分からない。

何故、読まずに破り捨てるのかと問いただしても、豪は何も答えなかった。

『兄貴にカンケーない。』

それで突っぱねられてしまっては、烈もそれ以上は何も言えなかったし、言わなかった。
手紙を読むように説得する気も、烈にはない。
豪は何時までも烈の側に居れば良い。それが、烈の本心だったから。
手紙を渡すのは、頼まれた側へ、烈なりの誠意を見せるため。
けれど、どこか、心の片隅では、烈自身が、豪の手によって手紙が破られる光景を見たかったからかも知れない。
手紙が破られるという事は、送り主と豪が結ばれることはないと言う事だから。



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