鬼哭 暗く、けれど中天に浮かぶ月によって照らされる室内。 上田城に引き上げ、政宗は城の最奥、幸村の居室の近くに部屋を与えられた。 広い室内の中央に、二段に重ねられた、絹の敷布団。 その上に、その体は沈んでいる。 浅い呼吸を繰り返し、その呼吸に合わせて掛け布が上下する。 純白の布団に月光に照らされる姿。 本来であれば、殿中深く、大切に育てられるはずの、伊達家の姫であった政宗。 戦場を自在に駆け巡り高らかに笑う姿は、たしかに猛々しく天翔る龍を思わせたのだが。 今、横たわるその姿は、手負いの龍が傷を癒すため、静かに伏しているように見えた。 一見して穏やかに見えた龍が、ゆっくりと瞼を上げた。 状況を把握しているのか、周囲を緩慢に見渡したあと、突然体を起こす。 「……っ!!!」 「目、覚めた…?」 遠慮がちに、静かにくのいちが声を掛けると、政宗が弾けたように振り返った。 そして、両手をばたつかせて何かから逃れようとする。 「っ…や……くる…なっ…!」 「政宗さん!」 くのいちが出した手を激しく撥ね付け、政宗は拒絶する。 同じ女として、今の状況がどれだけ精神的に酷いものか、想像せずとも解かる。 申し訳ない気持ちでいっぱいになり、吐き気がするほどだった。 けれど、目を逸らしてはいけない。 幸村に手を貸したのは自分であり、現実を確りと受け止める立場にあるのだから。 くのいちは、自らを叱咤し、恐慌状態の政宗を強く抱きしめ、その背を優しく撫で続けた。 「大丈夫…もう、大丈夫だから…」 呪文のように何度も何度もささやき、優しく宥めるように撫で続ける。 暫くそうしていると、政宗も落ち着いたのか、深い溜息とともに、くのいちの体を押し返してきた。 「…もう、良い…。」 「政宗さん…」 「醜態を晒した。…今の件、忘れよ。」 体を離すと、政宗は自らの肩を抱いて、震えだした。 「…はっ…とんだ笑い草じゃな……今まで守ってきた秘密も。矜持も。 真田が次男坊ごときに奪われるとはな。」 「…政宗さん…」 「何故そんな辛そうな顔をする?お前はお前の仕事をしたまでじゃろう。」 「でも…っ」 「主の命に従うのが忍。違うのか?」 政宗は、泣かなかった。 くのいちを非難するでもない。それが逆に、辛かった。 罵られたほうが、怒りをぶつけられた方が、どれだけ楽になれたか知れない。 くのいちが唇を噛み、逆に涙を堪える。 その表情を見て、政宗はくのいちの行動を肯定する発言をしたのだ。 「政宗さんは、どうして…そんなに冷静にいられるの…?女の子なのに…」 あんなことがあったのに、と続け、くのいちは遂に涙を零した。 「騒いでどうなる。もう、済んだことじゃ。 それとも、先刻のように取り乱すわしを、笑い者にするか?」 「違う!そんなんじゃない!!」 何故か、くのいちの方が泣いてしまい、涙が止まらない。 この政宗の強さは危うい。 全てを諦めてしまっているような、どこか悟っているようなその声の響きは、くのいちの心を深く抉った。 「…何故、お前が泣く。泣きたいのはこちらの方じゃろう。」 溜息とともに政宗の手がそっと伸びて、くのいちの頭を優しく撫でた。 「さっきは、手を打って悪かった。」 大事無いか?と優しく問う政宗。 くのいちはどうして良いかわからずに、泣きじゃくってしまった。 忍としてなんたる失態。なんたる醜態。 それが解かっていながら、くのいちは頭が痛くなるまで泣いた。 暫く、ずっと頭を撫でていた政宗が、感情が静まりつつあるくのいちからそっと腕を放す。 政宗をなぐさめるつもりが、逆になぐさめられてしまって、なんだか気まずい。 鼻を啜りながら、目を擦ると、その手を優しく止められた。 「目が傷つく。」 「…政宗さん…アタシ…どうしたら良いの…?」 謝っても謝りきれない。 その上、幸村の命を最上とするくのいちにとって、政宗に謝罪することは、己の主の、幸村を否定すること。 たとえ幸村の行いが正しくない事でも、くのいちは付き従うと決めたのだ。 今、政宗には謝らなければならない。だが、それは主を、自らを否定すること。 だから、素直に言葉に乗せて謝ることは出来なかった。 そして、自らの命を差し出すことも出来ない。この命は、主、幸村のものだ。 政宗から詰られることもなく。 ただ、現実を受け止める政宗に、くのいちは、どうすることも出来ないのだ。 混乱する頭に、飽和する感情。泣きじゃくるくのいちを見かね、 困ったように、政宗がくのいちの手を取った。 「そうじゃな…では、せいぜいわしの身を守ることじゃ。」 「…………?…」 不思議そうな顔をするくのいちに、政宗は諦観の表情で語る。 「お前を恨むつもりは無い。じゃが、わしもお前と同じように、譲れぬものがある。 わしは、わしの矜持を傷つける者を赦さぬ。伊達家を、害するものを赦さぬ。 分かるな?このまま幸村に囲われる事を良しとはせぬぞ。 あの場で自害できぬは、わしの抜かりじゃが…」 ここで一息区切って、政宗は残酷なほど冷たい声で、くのいちの耳元に囁いた。 「じゃがな、隙あらば、わしはここを出るか、自ら死を選ぶ。」 はじけたように目を見開き、政宗を見るが、声とは反対に、その表情は恐ろしく静かだった。 「分かったら行け。あらかた、幸村に、わしの目が覚めたら報告するように、言われておるのじゃろう?」 「………でも……」 「良い。行け。」 これ以上の話をするつもりが無いのか、政宗は布団に潜ってしまった。 仕方無しに、くのいちは部屋を出て、幸村の元へ赴いた。 それから、一年。 季節は変わらず巡り、けれど世の情勢は変わった。 政宗がいなくなった奥州は、上杉が配下とし、伊達家は家督争いの末、断絶した。 その事実を政宗は、何とはなしに聞き及んでいた。 幸村からも、下男の世間話からも。 そして、目を放せばすぐに自害を計る政宗に業を煮やし、幸村は政宗の前で女中を厳しく叱責した。 蒼白になり、女中を庇う政宗の姿は今でも目に焼きついている。 その件があってから、政宗はぴたりと自害を計らなくなった。 だが、政宗は幸村とほとんど言葉を交わすことも無くなった。 くのいちが直接政宗と言葉を交わすこともなかった。 ただ、幸村不在時に、くのいちの存在を知りつつ独り言のように語る政宗の声は、 くのいちにとって罪悪感を駆られるものであったが、同時にとても優しく、心に沁みるものでもあった。 ある日は軒先に二人分の茶と茶菓子が用意してあったり、 天気の良い日には、庭に繊毛が敷かれ、政宗が茶を点てる。 一人で茶を点てる政宗の姿は、確実にくのいちの気配を捉えているようで、手が付けられることは無いと知りつつも、 くのいちのために茶を点て、青空を見上げて、くのいちに語りかけていた。 「…愛、さん…」 「……どうした、くのいち。」 そんな中、くのいちは幸村の許しを得て、政宗の居室を訪れた。 今政宗は、"政宗"ではなく、幸村の妻として、昔の名"愛姫"と呼ばれている。 城に仕える者は、"愛姫"が"政宗"と知る人物は居ない。 隻眼である時点で、もしかしたら気づいている者も居るのかも知れないが、 使用人は皆、愛姫が好きで、ずっと上田に居て欲しいと望む者ばかりだ。 そして、主である幸村の立場が悪くなるような話を外に漏らす者もいない。 くのいちが、政宗の前に姿を現すのは久方ぶりだ。 それでも何も変わらず、いつもそう呼びかけるように、驚くでもなく政宗が答えた。 幸村に命じられ、女中が座す政宗の髪に櫛を入れている。 今では綺麗に切りそろえられ、肩よりも長くなった髪。 その黒髪を、女中が軽くまとめ、孔雀色の絹の組紐で結わえる。 「あのね…これ…」 遠慮がちに手を差し出すと、政宗がくのいちを見上げた。 「…これは?」 「そこで、見つけたの…。」 「撫子ではないか。」 「きっと良く似合うと思って。」 くのいちは、今結わえられたばかりの組紐の結び目に、撫子の花を挿し込んだ。 深い、けれど光沢のある緑の組紐に、撫子の薄い桃色が良く映えた。 政宗の白皙にも良く似合った。 「ありがとう。」 ふわりと微笑み、政宗は側にあったくのいちの頭を撫でた。 政宗は、優しい。 決してくのいちを遠ざけることも、詰ることもしない。 くのいちだけではなく、城中の全ての人間に優しいのだ。 幸村が不在の時には、城の中を歩き、自ら声を掛けて回る。 本人は、他にする事がないから、と言うが、城主の寵姫が自ら城中を歩き回り、それこそ厩番の男にまで声を掛けるのだ。 それが彼らにとってどれだけ嬉しく、励みになるか、政宗は知っているだろうか。 そして、使用人が失敗したときには厳しく叱責するが、 それはどこか励ましの色も含んでいて、使用人の仕事振りはより効率的に、より正確になっていった。 こうした小さな変化は、幸村にも届き『さすが奥州王であったお方だ』と苦く、けれど甘く呟く程だ。 「ちょうど良い。くのいち、今時間はあるか?」 「うん。」 「少し、話相手になって欲しいのじゃが。 鈴、すまぬが茶を淹れて来てはくれぬか?」 今まで、政宗の背後で髪を梳いていた「鈴」と呼ばれた女中が、軽く頭を垂れて部屋を後にする。 政宗はそっと隣を指し示し、くのいちを座らせた。 「お前には、話しておこうと思ぅてな。わしの、過去を。」 「…え?」 「この花、たしかにお前が持ってきてくれた。 お前も同じ気持ちでいてくれていると思ぅておるが、本当は、幸村からじゃろう?」 全てを見透かすような政宗の言葉に、くのいちは舌を巻く。 流石、奥州の王。洞察力も素晴しい。 殿中深くに囲っておくには、正直、惜しく感じられる。 「やっぱり、気づいちゃった?」 「お前なら、もっと繊細に考えるじゃろう。手折った花を贈るなど…」 政宗は嫌な顔はしない。 けれど、自ら幸村に手折られた政宗としては、野に咲いた花を手折って、贈る神経が信じられない。 幸村に他意はなく、本当に撫子が綺麗だと、政宗の心を少しでも慰められるように、と純粋に思ったのだろう。 だが幸村とまともに会話をしない政宗が、素直に受け取る訳がない。 だからくのいちに託した。 それが分かるから、政宗も無碍にあしらうことが出来ない。 「じゃから、お前には話をしておく。これ以上、わしも幸村を嫌いたくは無い。 じゃから、もし奴が、何かをする時には、今度こそお前が止めよ。」 「…でも……」 「分かっておる。主の命に従うのが忍の役目。 じゃがな、道を誤った主を正しき道に導くのも、役目であって良いのではないか?」 「政宗さん……」 「お前が、自らの過ちを正せず、苦しむ姿はこれ以上見たくない。」 くのいちの瞳を、確りと見つめる黒曜の瞳。 吸い込まれるようなその黒に、くのいちは知らず、頷いていた。 次頁 |
…おかしい。コワレテシマエの救済話のはずなのに。 どんどん政宗が可哀相な子になっていってしまっています。 そして、無駄に長い…。 あともう少し、お付き合いくださいませ。 |