通り雨 この日、幸村は武田領と上杉領の境まで来ていた。 なんとは無しに遠乗りがしたくなり、 それならば、と軽い旅仕度をして、兼続を訪ねて行った。 二、三日もてなしを受けた後の帰り道、突然の雨に降られ、 少々寂れた宿場で一夜を過ごすことに決めたのだった。 外は酷い雨で、一向にやむ気配がない。 予定では、今日の夕方頃、上田城に帰る予定ではあったが仕方ない。 この雨の中急いで帰ったとしても、城に着くのは夜半を越えてしまうだろう。 眠っている城内の者を起こすのはしのびない。 幸村は、『宿』と書かれた看板を掲げる店の暖簾を潜って声を掛けた。 「女将、済まぬが一晩部屋を借りたい。」 「はいな。」 愛想の良い、女将と言うには幾分年若い雰囲気の女が、帳簿を幸村に差し出した。 その時、幸村と同じく、雨に降られて今日の移動を諦めたのだろう男が、 幸村と同じく宿屋の暖簾をくぐってきた。 「済まぬ。部屋は空いておるか?」 「あらまぁ。すみません。こちらのお客様で満室になってしまいまして…」 「そうか。」 申し訳なさそうな女の言葉に、 後からやって来た男が、素っ気無く返し、踵を返す音がした。 この雨で、小さな宿場はどこも満室なのだろう。 幸村の視界に入る男の着物は、すでに、しとどに濡れていた。 それこそ滴らせるほどに雨を含んだ着物の色すら重たく見え、気の毒に思えた。 幸村は、振り返り、相部屋を申し出た。 「もし。貴方がお厭でなければ、私は相部屋でも構いませんが…」 と、ここで、幸村は目を見開いた。 そこには隻眼の、雨に濡れて尚も凛々しい、見知った竜が立っていたのだから。 頭の先から足の先まで、雨に濡れているのに、 その姿はくたびれて見えるどころか、逆に流麗だ。 いつもふわふわとした猫ッ毛は、雨に濡れてその毛先からは水滴が落ちる。 額につくその髪の毛がうっとおしいのか、政宗は軽く払うように掻きあげた。 「ま…政宗殿!」 「なんじゃ、真田の…。」 お互いぽかんとした顔をし、一瞬早く政宗が続ける。 「おぬしがどうしてここへ?上田はもうすぐ先ではないのか?」 「はぁ…。それが、越後からの帰りでして。 この天候ですと、馬を進めても城に着くのは夜半を越えるかと。 それならばここで一晩、と思ったのです。そういう、政宗殿は?」 「…所用じゃ。」 幸村の問いには素っ気無く答え、政宗は着物の端を絞る。 ぽたりぽたりと水分が土間に落ちて、いかにも寒そうだ。 「お風邪を召されては大変です。 よろしければ、相部屋で、こちらでお休みになられては…」 政宗はいつもどこか近寄りがたく、幸村は遠慮がちに問う。 彼自身は、そんなつもりは毛ほども無いのだろが、 大名であり、技芸に秀で、教養も嗜みもある政宗は、幸村にとってすでに偶像に近く、 幸村が政宗に寄せる好意が、特別であるせいかも知れなかった。 「悪いの。この雨と成りではどうしようもなくてな。 ほとほと困っておったところじゃ。」 政宗は幸村に礼をして、相部屋で一晩泊まることにした。 「へぇ。では、お二人様ですね。 お食事は何時頃お持ちいたしましょう?」 女に問われ、幸村は政宗を振り返った。 「先に湯を使わせてもらいたい。二刻後でどうじゃ?」 「構いませんよ。」 幸村は微笑み、女将に二刻後に二膳、頼んだ。 そして、部屋に上がると早々に政宗は浴衣を持って湯殿へ消えていった。 政宗が湯殿へ行っている間、幸村はそわそわと座ったり、立ったりを繰り返していた。 まさか。 まさか、まさか。 まさか、このような地で、心ひそかに思いを寄せる政宗と出会うとも思わなければ、 相部屋で一夜をともに過ごすことになるとも思わない。 寝相は悪くないほうだと思うが、政宗に迷惑を掛けてしまったら、 という心配に始まり、もしも我慢が出来なくなり政宗に手を出してしまったら、まで 幸村の心配事は尽きない。 しかも、次に視界に入る政宗は湯上りなのだ。 そこまで考えて、幸村は邪念を払うように首を左右に振る。 「…何をしておる、幸村。」 「ま!政宗殿!!」 反射的に振り返れば、政宗が立っている。 その姿は、先ほど幸村が一瞬頭に思い描いた姿よりも艶かしい。 濡れた髪は先ほどのままだが、その頬は湯上りゆえか、上気している。 着物を洗ってきたのだろう。衣紋掛けに干し、袂や裾をぱたぱたと軽く叩いて、皺をのばす。 身分の高い政宗が取った、ある種所帯じみた行動に幸村の心は温かくなる。 それは、幸村がいつか嫁後と一緒に暮らしたり、旅に出たり、と夢見た光景と一緒だ。 着物を干す政宗の後ろ姿に、思わず抱きしめたくなる。 「お前も早よぅ湯を使ってきたらどうじゃ?お前の方が風邪を引いてしまうぞ。」 幸村の気持ちを知ってか知らずか、 政宗は衣紋掛けからくるりと振り返り、幸村に声を掛けた。 政宗へと手を伸ばしかけた衝動をぐっと堪えて、幸村は政宗と入れ違いに湯殿へ向かった。 幸村が湯殿から戻ると、既に膳が運ばれており、政宗はぼんやりと外の雨を見ながら、 手酌で酒を飲んでいた。 「上がったか、幸村。」 ほんのり目元が赤い。 政宗は酒は好きだが、弱いと認識している。 呑み始めてどれほど経つかは判らないが、そろそろ止めた方が良さそうだ。 「政宗殿、お一人で呑まれていたのですか?」 「体が温まる。」 「でも、深酒は体に良くありません。そろそろ、お止めになられては?」 すでに軒下に掛けられていた、政宗の手ぬぐいに倣って、横に掛け、 幸村は側にあった酒の膳を政宗から遠ざけた。 「ふっ。おぬし、孫市ににておるの。」 「孫市殿に?」 「要らぬ世話ばかり焼く。放っておけば良いものを…。」 酔狂な奴よ、と続け、政宗は窓から身を離し、食事の膳の前に正しく座した。 幸村に向き直り、ふわりと笑む。 その表情に、幸村の胸はどきり、と高鳴った。 「どうした、喰わぬのか?」 「…いえ。それでは、いただきましょう。」 政宗と向き合い、幸村は食事を取る。 取りとめも無く、他愛も無い会話をし、楽しいひと時が過ぎた。 先に酒を飲んでいたせいか、普段あまり話さないことも、政宗は話をしてくれた。 少し乱れた襟や、酒のせいで潤んだ瞳、赤い目元さえ気にしなければ、 幸村にとって実に充実した時だ。 気を抜けば、すぐにでも政宗に触れてしまいそうな自分を押し留め、向かいあう政宗の笑顔に胸がときめいた。 次頁 |
突然の雨で偶然に出会う幸村と政宗。 幸村が一方的に政宗大好きすぎる。。。 |