幸村は、戦の最中、常に違和感を感じていた。 まるで自らの布陣が読まれているようだ。 戦況を決める決定打はなくとも、それでもじりじりと真田軍は撤退を余儀なくされていた。 この戦は勝てない。 瞬間的に、『敗北』の二文字が思い浮かんだとき、 幸村の脳裏に、藤の、困ったような怒ったような笑顔が浮かんだ。 夜光蝶 伍之巻 まるで自らの手の内を読まれているかのように、だんだんと包囲されていく。 一度崩れた陣形を立て直すのは難しい。 その上、相手はそれすらも見越したように、追い討ちを掛けてくる。 決定打を与えられるでなく、少しずつ、じりじりと、けれど確実に幸村を攻め立てていた。 自軍は次々と投降を始めていて、幸村とて撤退を余儀なくされていた。 これ以上は無理だろうと感じ、撤退を始めるため、細い林道に馬を進める。 いずれはこの命を賭しても負けられない戦はあるが、それは今ではない。そう思い、幸村は馬首を翻す。 先行するくのいちの誘導にしたがって、注意深く馬を進める。 少し視界が開けたところに、無数のかがり火を見つけた。 自軍の本陣へたどり着いた、と思ったのもつかの間。 かがり火に浮かび上がるのは敵軍の旗印。そしてその門は敵方の、雀に竹の紋だった。 「…真田…源次郎、幸村……じゃな?」 「………そうだ……」 「貴殿を拘束させてもらう。」 かがり火を背に、馬上の人物――おそらくこの周囲を包囲している敵軍の大将なのだろう――が、 幸村に声を掛けた。 「抵抗はするな。既に勝敗は決した。此度の戦、武田の負けじゃ。大人しく捕縛されよ。」 「…私の軍は…お館様は…?」 「安心せぇ。無駄な殺生は好まぬ。信玄公は氏康が丁重に遇しておるはずじゃ。」 「…そうか…よかった。」 馬上の人物が、少し首を動かすと、側に控えていた側近らしき男が幸村を捕縛しにやってきた。 言われる通り抵抗をしたところで無駄だろうし、抵抗して自軍に被害が出ても困る。 それに何故だか、この馬上の人物は信用できる気がした。 縄を掛けられ立つように促される。 見たところ、くのいちの姿が見えない。せめて彼女だけでも逃げてくれたら良い、 そう思いながら幸村は立ち上がった。 せめて、最期くらいは堂々と居ようと、確りと馬上の人物を見つめて歩を進める。 敗軍の将であるのに、手荒く扱われることはなかった。 一歩、また一歩と歩みを進めるうち、幸村の表情がだんだんと驚愕に見開かれていく。 「あ…あなたは………」 馬上にあるのは、一人の武将。 三日月の前たてに、緑を基調とした具足、そして、何よりも特徴的な、黒い眼帯。 その眼帯には見覚えがあった。 否、見忘れるはずがない。 つい先日まで、毎夜通った遊郭の、心から身請けを願った藤のもの。 「ふ…じ……どの………?」 「……………………」 馬上の人物は答えない。 けれど、そうだ、この声だって聞き覚えがある。毎日聞いたものだと思い当たった。 「そんな…馬鹿な……」 幸村の言葉に、馬上の人物は答えない。 代わりに、側近らしき男が指示を仰いだ。 「政宗様、真田幸村の処遇、どう致しますか?」 「まずは本陣へ帰ってからじゃ。氏康の判断も仰がねばな。此度の戦は奴のものじゃ。 伊達は援護したに過ぎぬ。」 どこか冷たく、突き放したような言葉を聞きながら、 幸村は、呆然とした表情で馬上の藤を見つめていた。 目隠しをされて連れてこられた先は、本陣と思しき城の地下牢。 僅かな蝋燭の明かりに照らされて、見張りの足軽が視界の端に入る。 その静かな空間で、幸村は一人正座をし、黙して瞳も閉じひたすらに考えていた。 考えたくはなかったが、だが、幸村を捕らえた人物は間違いなく藤だろう。 何故、どうしてといった疑問は尽きない。 冷静に考えようとすればするほど、混乱してしまいそうだった。 そんな、葛藤に苛まれている頃、静かな空間に、僅か、土を踏む音が聞こえてきた。 猫のようにしなやかに歩くこの足音を、幸村は知っていた。 畳の上でも土の上でも、足音を消すのが上手い。 藤が武人であるならば当然か、と全て得心がいく。 「幸村…」 「……藤殿……否、なんとお呼びすべきか、敵軍の将。」 頑丈な格子を隔てた向こう側に立つ人物を見据え、幸村は確りとした口調で問うた。 「…外せ。」 「はい…」 今まで見張りに立っていた足軽が、政宗に命じられて立ち去る。 その足音が十分に遠のいてから、政宗は幸村に向き直った。 「伊達、藤二郎政宗…と言う。」 「政宗殿、それが本当のお名前ですか。」 かの高名な奥州の独眼竜・伊達政宗が藤だったとは。 幸村は内心、もっと早くに気付くべきだったと苦虫を噛み潰した。 まさか敵軍の将が単身武田領…しかも花街などに入り込むなど、思いも付かなかった。 軽く瞳を閉じた幸村に何を思ったのか、政宗はふと小さく息を付いた。 「幸村…これも策のうちじゃ。赦せよ。」 「…正直、驚いています。まさか、大大名である貴方のような方が、敵地の、しかも花街に入るなど…」 「本当は、信玄公の寝首をかいてやろうと思うたのじゃがな… 予定は狂ったが、まぁ悪い結果ではない。」 頑丈な柵格子の向こう、少し前まではその格子は朱色で、捕らわれているのは藤の…否、政宗であったのに。 今ではどうだろう。 捕らわれているのは幸村の方。格子の向こうの政宗は活き活きと輝いているように見える。 「此度の布陣、お見事でした。全て手の内を見透かされているようで。」 「馬鹿め。見透かしていたのじゃ。」 「?」 「…双六、歌留多、囲碁、将棋…お前の手は分かり易過ぎる。」 「一本取られましたね。」 呆れたような溜息をつく幸村に、政宗は笑った。 「馬鹿め。常日頃から気を引き締めぬからじゃ。双六から手の内を読まれるなど…」 「…次があるなら、気をつけましょう。」 幸村は、ゆっくりと瞳を政宗に合わせた。 そして見つめる。あの最後の夜のように。 「貴方を身請けしたいと言った言葉に、未だ偽りはありません。 今もその気持ちは変わりません。」 「幸村…」 「もっとも、私の命があればという前提ですが。」 ゆっくりと立ち上がり、幸村は格子の側に寄った。 格子を掴み、向こう側に立つ政宗を見つめた。 「あなたには守るべき国も、民もある。だから、"待っている"と言ったのですか? あの夜、こうなることを見越して?私に望みだけを残して、消えるおつもりだったのですか?」 政宗は視線を足元に落とした。 何も答えないが、言葉を捜して迷っているように見える。 具足を外し、帯刀しているものの軽装である事を見る限り、幸村がここから出られないと確信しているのだろう。 「わたしがここで捕縛され、上田に帰ることは無いと、分かっておられたから、 待っているとわたしに希望を与えたまま…。 もし生き残ったとしても、私が国へ戻る頃には、自身の国へお戻りになるおつもりで?」 幸村の言葉に、政宗はゆっくりと顔を上げた。 「…今日はもう遅い。ゆっくりと休め。」 「政宗殿!」 政宗は、一言だけ言葉をかけると、ゆっくりとその場を立ち去った。 僅かな足音を聞いていると、入れ違いに見張りの者の足音が降りてきた。 幸村はやりがたい気持ちを押さえ、握り締めた格子を軽く叩いた。 次頁 |
政宗様登場。 鈍い幸村。そしてこれから一人問答。ぐるぐる回っても答えは同じ。 |