己が知っていることは、名前のみ。
そういえば、つい先日正確な性別も知った。
じゃじゃ馬で、はねっ返りで、負けず嫌いで、頭が良い。
気位も高くて古風な話し方をする。
片目は幼い時、病で失ったらしい。

毎日少しずつ、藤の事を知る。
幸村も、同じくらい藤に自分を知ってもらえたらと思う。
だからいろいろと話をした。

約束の日まであと八日。





 四之巻





「藤殿…実は…先立てお話した通り、出陣しなければならないかも知れません。」
「…出陣?」

ちょくちょく、藤は幸村のために肴を作るようになった。
今日も藤が作ったという肴をあてに、幸村は酒を飲んだ。
酒をあおり、膳に置くと、藤がその空いた杯に酒を注ぐ。

「どうも、上杉・北条に動きがあるようで。もしかすると数日中に出立という事になるやも。」
「数日のうちに…」

徳利を持っていた藤の手が、膝に落ちる。
何か考えるように、視線は部屋の隅の灯りに向けられた。

「藤殿、あなたとのお約束、守れなくなるかも知れません。」
「…幸村…」
「わたしの気持ちは変わっていません。藤殿を身請けしたい。
ひと月毎夜、とのお約束でしたが、戦が起これば私は行かねばなりません。」

幸村の言葉に反応して、部屋の隅へ投げられていた視線を、ゆっくりと幸村へと移す。
どこかぼぉっとした、けれどギラギラと光る隻眼。

「藤殿。都合の良いお願いかと思いますが…約束を繰り上げていただけませんか?」
「幸村…」
「私は戦には行かなければ。でもあなたをここに残して行くのはとても出来そうにないのです。
だから、わたしが出立する前に、あなたを身請けしたい。」
「…気持ちは嬉しいが…わしを身請けして、その先どうする?」

幸村は、藤の手からそっと徳利を取り、膳の上に置く。
そしてそのまま白粉に塗られた白い手を握り込む。

「私が身請けした後、あなたは自由です。藤殿の好きな人生を送っていただいて構いません。」
「好きな…人生…」
「はい。ですが、もし藤殿が私を少しでもを好いてくださっているなら、
供に来ていただきたいのです。」
「…どこへ…?」
「わたしが行く場所、全てに。貴方を連れて行くことは少し不安ですが、戦場にも。」

幸村の言葉に、藤は瞠目した。

「わしに、真田幸村の小姓になれ、と?」
「いえ、決してそのような…」

藤の手を握りこむ手に力が篭る。
真剣な幸村の表情に、藤は鼓動が激しくなるのを感じた。

握られている手はそのままに、可能な限り幸村と間を取って、
藤は反対の手を伸ばして煙草盆を引き寄せる。
火をつけて煙を吸おうとするが、片手を幸村に奪われた状態では、なかなか上手く行かない。

結局諦めて、煙管を煙草盆に戻す。
代わりにゆっくり息を吸って、吐く。
溜息のようなそれは、鼓動を収めるための、深呼吸を兼ねていたかもしれない。

「藤殿…」

熱っぽく告げる幸村の言葉に、藤は答えなかった。

「戦がはじまるとなれば、おまえも準備があるじゃろう?」
「はい」
「お前の"お館様"とやらは、供に行くのか?」
「いえ、お館様は後発部隊でいらっしゃいます。わたしは先発部隊で、陣を敷くため先に出ます。
おそらく明日の軍議で決まれば、わたしはすぐにでも…」

そうか、と呟いて、藤は視線を再び部屋の隅へと投げる。

「戦が…始まるのじゃな…」
「藤殿?」

藤は幸村に向き直って、幸村が握り締める手の上から己の手を置いた。

「幸村、もしお前にその気があるなら、戦がある間は待ってやろう。」
「藤殿?それはどういう意味ですか?」

藤の肩を抱き寄せて、幸村は静かに、ただ焦燥を隠さないまま藤に詰め寄った。

「お前が戦に出る間は、わしも店には上がらぬ。約束してやる。
生きて帰って来い。ここへ。」
「藤殿…」
「幸村、知っておると思うが、花街で惚れた腫れたは、惚れた方の負けじゃ。
惚れたのはお前か、わしか、どちらだと思う?」

寂しげな問いに、幸村は唇を噛み締めた。

「藤殿がそう仰るなら、わたしはあなたを信じて、必ずここへ戻ってまいります。」

込み上げる感情を抑えて、幸村は藤の体を強く抱きしめた。
もう慣れてしまった、白粉の香りに混じって藤自身の香りがする。

戦となれば、長い間戻ってこられなくなる。
その上生きて戻ることが出来る保証も無いのだ。
幸村は離れる間の寂しさを補うように、強く、藤の体を抱きしめた。



明けて翌日、幸村は自らの軍を率いて戦場へと赴いた。
藤の事は気に掛かったが、藤の言葉を信じて、必ずこの地に戻ると誓った。
再び藤に出会うため、戦場で命を落とさぬように。





「藤姫様…宜しいのですか?」
「…何がじゃ…」
「真田幸村と、あのような約束をなさって。」
「良い。…これ以上は口を挟むな。」
「…御意…」

夜の化粧を落とし、こざっぱりとした藤は、小袖を纏うと声を掛けてきた男に答えた。

「それと…今夜発つ。準備しておけ。」
「御意」
「店主には礼を弾んでやれ。」

藤は一言付け足すと、軽い足取りで部屋へと戻る。
そして、眠る少女の頬を指先で軽くんでると、慈しむように小さく呟く。

「翠、息災でな。この世の理に負けず、強く生きよ。」

そして、控えていた男と供にその場を立ち去った。



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薄々感づかれていたかと思いますが、その通りです。
次はいろいろと動きます。