名は藤。
店に上がるようになり、『藤姫』と名を与えられたという。
確かに、『姫』というに相応しい気高さを持っている藤は、
一目で幸村を虜にした。

鮮やかな着物を纏い、鼈甲の簪に革の眼帯は、藤の魅力を一段と引き立てているようだ。

出会った奇跡が縁を繋いで、今の藤の馴染みは幸村ただ一人だ。
初めて藤を訪れた日、幸村は藤と身請けの約束をした。
その約束を守るために、嫌いな花街も慣れたものになっていった。





 参之巻





「どうも、噂になってるみたいじゃのぅ、幸村。」
「…お館様?」
「晩熟で、色恋沙汰に疎いと名高いおことが、毎夜花街に通っている噂じゃよ。」

信玄の館で軍議を行った後、幸村は信玄から個別に呼び出され、語らっていた。
指摘された件については、既に他の武将からも話を聞いていた。
多くは、幸村が今まで嫌っていた花街に、毎夜通う程の上玉が居るのか、という事と、
是非その妓女に会ってみたい、という内容が圧倒的多数を占めたが。

「なんでも藤殿を身請けしたいんじゃって?」
「はい、お館様。」
「幸村よ。わしは、おことを優秀な武将だと思っておる。それに、個人的なところまで踏み込まない主義じゃけど。
藤殿についてはちょっと…入れ込みすぎじゃあないかねぇ?」
「…藤殿と、お約束いたしましたので…」
「幸村、気をつけなきゃいけないよ。何事も、過ぎることは良い結果を出さないからねぇ。」

信玄の言葉を神妙に聞きながら、幸村は頷いた。
けれど、幸村の遊郭通いももう半月を過ぎ、約束のひと月まで半分をきっていた。
今更やめることは出来なかった。

当初、藤に話をした通り、幸村は藤を抱いたことはなかった。
話をして、酒を飲み交わして、時折、藤が歌を歌う。
双六をしたり歌留多をしたり、本当に一夜を遊んで明かして朝を迎える。
供に床につく事もあるが、抱きしめる以上の事はしないで居た。

信玄の屋敷を後にして、幸村は自らの屋敷に帰る。
気になるのは、先ほどの軍議の事と、藤の事。
戦況から考えて、信玄が出陣を決めれば、藤との約束は守れないかも知れない。
確かに、信玄の言う通り、入れ込みすぎは良くない事とは思うが、
ここまできたら、意地というものも出てくる。
父に快く思われなかったが、何とか口説いて身請けの金も工面したのに、戦で約束が守れないという事は避けたかった。

ようやく、藤が心を開いてくれるようになってきたのだ。
普段は幸村が自身の事や、外の事を話すが、たまに、藤自身の話をしてくれるようになった。
口では厳しく、態度もとてもつれないが、
本当は毎夜通う幸村に感謝している、という事も伝えてくれるようにまでなったのだ。

(今更、藤殿との約束を反故にするわけにはいかない。)

街中を歩きながら、幸村はふと気付いて、一軒の店に入った。
数刻後にはまた藤に会える。
そう思うと、幸村の心は躍るのだった。





「藤姫姐さまがいらっしゃいます。」
「いつもありがとう。」

いつもの『かむろ』がやって来て、幸村に笑顔で挨拶をする。
初めこそ、この『かむろ』も緊張していたが、毎日通う幸村に慣れたのか、すっかり笑顔になった。
『かむろ』に幸村は小さな袋を渡した。

「みんなで食べると良い。」
「?」

『かむろ』は不思議そうに幸村を見つめ、そして渡された袋を見る。
開けてごらん、と促し袋の中を開けさせると、『かむろ』はさらに顔を破顔させて喜んだ。
色とりどりの金平糖に、子供の頬は自然と緩む。

「ありがとう!幸村さま」
「こら、翠。幸村も。甘やかしてはならん。」
「姐さま!」
「藤殿。」

翠と呼ばれた『かむろ』はびっくりしたように飛びのいた。
見上げた藤が困ったように息を吐き、けれどその後苦笑しながら、唇に指を当てて翠に言いつけた。

「良いか、皆で分けるのじゃぞ。」
「はい、姐さま。」

頬を紅潮させ障子戸を閉める翠。
残された幸村は申し訳なさそうに藤を見上げた。

「すみません、藤殿。」
「幸村、ここにはここの"決まり"がある。あの子等の先は決まっておる故、
決まり以上に甘やかしては生きてはいかれない。」
「…はい。おっしゃる通りです。」

藤に窘められ、幸村は眼に見えて肩を落とす。
藤が言っていることは正しい。
遊郭には遊郭の決まりがあり、それに従えねばこの花街では生きていけない。
客からものを貰っていけない訳ではないが、あまり好ましくない事だ。
そんな事に気づけなかった己を恥じ、幸村は恐縮する。

「…まぁ良い。翠はわしの『かむろ』じゃ。
教育が至らなんだ点はわしの落ち度じゃ。すまなかった。」
「そんな…藤殿は悪くありません。わたしが浅慮だったのです。
街で見かけて、綺麗だったので、つい。」
「もう良い。幸村、翠まで気に掛けてくれてありがとう。礼を言う。」
「ふ…藤殿…」
「お前には、いつも良くしてもらってばかりじゃ。」

藤はふわりと笑って、幸村の隣に座した。

「礼になるかは分からぬが、今宵は少々、酒肴を凝らせた。」

言いながら藤が手を叩くと、すっと障子戸が開き、酒膳が運ばれてきた。
いつもなら、藤が部屋にやってくる前に運ばれていたが、気付けば今日はまだだった。
とは言え、味が濃いだけの肴は幸村の口には合わないのだが。

「食べてみよ。」

幸村の胸中を悟ったのか、藤が声を掛けてきた。
思わず藤を窺うが、その表情は「大丈夫」と言っているようで、幸村は箸を取った。
食べたくないと強く思うほど不味くも無いのだから、言われるままに肴に箸をつける。

艶やかに見える里芋、蓮根、こんにゃく、人参の煮付けと、
豆腐の田楽、魚の煮付け。
確かに、いつもよりは品数が多い。

一口、口に運んで、幸村は驚く。

「うまい…」
「そうか。口にあったか?」
「はい、とても…!これは…?」
「わしが作った。」
「藤殿がっ?!」

こう言っては失礼かも知れないが、藤は料理や掃除、裁縫など、家事は苦手だと思っていた。
正直意外だ。

「幸村…お前の表情から思っておることが手に取るように分かるぞ。
失礼な奴じゃが…まぁ良いわ。今、わしからできることと言えば、このくらいじゃ。
いつも良くしてもらっておる、せめてもの礼じゃ。」

ぶっきらぼうに告げて、藤はそっぽを向いてしまう。
だが幸村はそんな藤の態度が妙に可愛く思えて仕方ない。
その上、わざわざ幸村のために時間を割いて作ってくれたという事が、何よりも嬉しい。

「藤殿、嬉しいです。それに、腕前も相当なものですね!
これなら、いつでもお嫁にいけますよ。」

思わず言ってしまった言葉に、藤がピクリと反応した。

「…嫁…?」
「あ、すみません。どこかお気に障りましたか?」
「幸村、念のため聞いておくが…わしを…女だと思っておるのか?」
「…え?」

藤の言っている意味が、良く分からない。
幸村は一瞬我耳を疑う。

「藤殿?」
「…わしは、男じゃぞ、幸村。」
「?!?!?!?!」

藤の言葉に、幸村は衝撃を受ける。

「え?でも…ここは遊郭でしょう?」
「遊郭じゃな。でもここは、陰間茶屋でもある。
おぬしの言っておった、"お館様"とやらも、相手は女であったり、男であったりしたぞ。」

知らなかったか?と問う藤の声がだんだん険しくなっていく。

「藤殿は、おのこだったのですか…?」
「そうじゃ。」
「こんなに綺麗な方が?」
「………」

言いながら、幸村は膳を避けて、藤の肩に触れた。

「こんなに、華奢な方が?」
「……………」
「藤殿なら、着物ごと、抱きあげられますよ?」
「…………………」

膝立ちのまま、幸村は藤を抱き上げてみせる。
その時の藤の気まずそうな顔に、まだ幸村は気付いていない。

「信じられません…世の中には、このように綺麗なおのこもいるのですね。」

感嘆の溜息を漏らしながら、幸村は抱き上げていた藤を下ろした。

「……幸村、褒め言葉なのじゃろうが、全く褒められておる気がせん。」

見上げてくる藤は、その隻眼を潤ませていた。
そして続けて幸村に問う。

「わしが、女人だと思って身請けの話もしたのじゃろう?
男と分かった今、まだ身請けを考えておるのか?」

その問う声は、少々震えているように、幸村には感じられた。
それが分かって、幸村は優しく微笑む。

「わたしの気持ちは変わりません。たとえ藤殿が男でも、身請けしたいと思っています。」
「…酔狂なやつじゃ。」

幸村の肩に、ことり、と頭を預け、藤は小さく呟いた。



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そろそろ来ますよ。政宗様が。
幸村と政宗と信玄、いろいろ絡んでくる予定。