壱之巻





白粉と紅の香り。
夜の街の香り。
むせ返るような媚びを売る声に辟易する。

ただ、この足をかの楼閣へ向かわせるのは、初めて見初めた人に会うため。
この儚く美しい牢獄の中の住人。
夜だけ逢瀬を許された、華人へ会うためだけに、この足は忌まわしくさえある街を進む。

掛けられる声、伸ばされる白い腕。
その全てを無視して、真田幸村は目指すべき花街の最奥へ歩を進めた。





出会ったことは奇跡だと言って良い。
妓女遊び後の信玄を迎えに行った事が初まりだった。

早朝、迎えに行ったは良いものの、まだ周囲はほの暗く、朝日が昇るまでには少し時間があった。
夜は姦しく、むせ返るような匂いに溢れる花街も、早朝となれば幾分清らかな空気が流れる。
幸村は、夜の町が苦手だった。
鳥籠のような朱の格子から伸びる白い腕。
媚びを売る女。
その女を売る女衒。
幸村の心を酷く逆撫でし、気分を害するものだった。

幸村だとて、頭では理解しているのだ。
好んで花街で春を売る女が少ないことなど。
借金の形や出稼ぎでやってきた年端も行かない少女が多いことも知っている。
この花街で生まれ、育ち、遊女としての将来しか見えない女達が混じっていることも。

だが、理解していることと、容認できることは違った。
幸村は少しでも、こうした世の中でなくなれば良いと思うのだが、
これも世の流れと信玄から諭され、納得は出来ないまでも、信玄に付き従い何度か来ていた。
ただどうしても、抱く気にはなれず、結局この空気にも慣れない。
そのうち信玄の送迎のみするようになったのだが。

幾分新鮮な空気を吸えば、少し気も落ち着く。
信玄が出てくるまでの間、幸村は店の前で待っていた。
ぼーっと立ち尽くし、明けに染まる空を見上げていると、裏手の方から人影が飛び出てきた。

どしん、という衝撃と供に、人影は幸村にぶつかり盛大に引っくり返った。

「あ…」

驚き、言葉が告げずに居ると、地面に腰を強かぶつけたのか、土の上に転がった人物がいきなり怒鳴りつけてきた。

「おい!なぜそんなところに突っ立っておる?!危ないではないかっ!!」
「…あ…すみません…人待ちをしておりまして…」

高すぎず低すぎない声は、凛として幸村の頭から足の先まで突き抜けた。
この淀んだ街に不釣合いなほど、高貴で凛々しい印象。
化粧をしていないのに、この華やかさは一体なんだろう、と幸村は首を傾げる。
そして、無言で差し出された手を見つめ、さらに小首を傾げた。

「貴様は馬鹿か?早よぅ起こさぬか!」

催促されるように手を差し出され、幸村は命じられるままその手を取り、引っ張りあげた。
想像以上に軽い体は、引っ張りあげた勢い余って幸村の胸の中に。

「…っ加減も知らぬのか!」
「あ…すみません…」

腕を取り、引っ張りあげたままその華奢な体を抱きとめて、気付けば幸村の空いている腕は、
腕の中の人物の腰を確りと抱きしめていた。

「…おい…もう大丈夫じゃ。放せ…。」
「あ、失礼しました…」

自分自身の行動に驚き、赤面し、幸村は慌てて腕の中の人物を解放した。
そうしてまじまじと見下ろし、どきりと鼓動が高鳴る。

幸村よりも頭二つ分ほど低い身長から見上げてくる意思の強い瞳。
その瞳は惜しいことに隻眼だった。
右目は上等な絹で隠されていて、片側のみの深い虹彩が幸村を見据えていた。
一見『かむろ』のようだが、その小さな身から発せられる覇気は、まるで信玄のそれと似ていた。
およそこの街に似つかわしくない。

この自然な命令の仕方と良い、どこかの城主だろうかとも思うのだが、
それにしてはあまりにも子供のようで、こんな花街の、朝早くに出会うような人物ではないようにも思えた。
着ている着物も、やはりどこか派手で、この店で働いているのだろう。

「…なんじゃ?どうした。呆けておるが?」
「あの…あの…あなたは、この店で働いているのですか?」

着物についた土をはたはたと払うその手が、ぴたりと止まった。
そして、汚れた着物に向けられていた視線が、再び幸村に定まる。

「…そういえばお主、ここで人を待っているとか言っておったな?」
「はい。」
「…おぬし、名は…?」
「真田、幸村と申します。」
「さなだゆきむら…」

小さく幸村の名を呟く人物に、幸村は思わず聞いていた。

「あの、私の問いに答えてください。あなたのお名前も知りたい。」
「…わしの事が知りたい、と?」
「はい!」
「おかしな奴じゃな。」

ふっと小さく笑うその人物に、幸村は視線を外すことが出来なかった。

「わしは、今日からこの店に上がる。藤、と言う。見知りおけ。」

随分と高慢な口ぶりだが、何故かこの人物にはしっくりと似合った。

「藤…殿……今夜からこの店に…?」
「なんでも、今日ここに泊まっておる客の一人に大層見初められたようでな。
店に出る心算はなかったのじゃが…お相手する事になった。」
「客…」
「随分と高名な人物だと聞くが…花街で遊ぶ人間じゃ、どのようなものか。」

随分と嘲りを含めた言い方だが、その言葉は幸村に様々な意味で深く突き刺さった。
藤の言葉の端々に、信玄に通じるところがあり、
もしかしたらこの藤を指名した高名な人物というのが、信玄かも知れないのだ。
目の前のこの藤に、他の誰かが触れる、そう考えると居ても立ってもいられなかった。

「藤殿!今宵、そなたと供に過ごしたい!!」
「どうした、突然……?
それに、花街は嫌いじゃと、先ほどまでは顔中に書いてあったようじゃが?」

どうやら藤は人の心の機微にも鋭いらしい。
素晴しい観察眼に、幸村も舌を巻く。けれど、今は感嘆している場合ではない。

「確かに、花街は好きではありません。ですが、あなたが店に上がるとなれば、話は別。
どうか、今宵はこの幸村と過ごしていただきたい。」
「…おもしろい奴じゃ。良いじゃろう。空けておいてやる。今宵、必ず来い。」
「は…はい!」

ふわりと笑って店の奥へと入っていく藤を見送って、幸村は身が熱く焼かれる感覚を味わった。
その後、出てきた信玄に事の顛末を報告し、今宵は供をすると告げると
「おこともようやく大人になったようじゃのぅ、幸村」といたく喜ばれるのだった。

店に上がり、誰かの手が触れる前に出会えてよかったと、
幸村は心から安堵するのだが、妓女遊びが一夜でいかほど飛んでいくかなど、この時は知る由もなかった。



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今はあまり多くは語らないでおきます。
えぇもうお察しの通りでございます。