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音 「俺は、好きだよ。お前の音が。」 「兄貴…」 ソウルは苦笑して兄・ウェスを軽く手で制した。 解かっている。自分に、兄のような音楽の才能がない事は。 ヴァイオリニストの兄が弾く弓は、まさに『惹く』。 弦を押える指はまさに『幻』そして、『玄』。 ソウルは、兄以上に音楽に愛された存在を知らない。 世界中の音楽家から賞賛を受け、尊敬の念を一身に浴びる兄・ウェス。 ソウルの自慢でもあり、コンプレックスでもある。 兄と比較されるのは厭だった。 けれど、音楽は好きだったから、違う楽器を選んだ。 ヴァイオリンともあわせやすい、という事でピアノを。 だが、思い知らされる。 圧倒的な力量の違いに。 自分なんかが兄と協奏してはならない、と。 今日もちょっとした音楽家達の集まりに招待され、断りきれずに出席した。 ウェスと出席すれば、協奏曲を所望されるのはいつもの事。 そして、いつも通り、曲が終わればソウルはウェスの引き立て役になっていた。 曲が終わればいつもウェスはソウルに、「俺はお前の音が好きだ」と告げる。 真っ直ぐで、ひたむきだ、と。 けれど、自分の音は嫉妬で酷く醜く、聞くに堪えない音をしている、とソウル自身が解かっていた。 さざめく招待客の中から聞こえてくる、『弟さんの方は大したことないのね』という感想や、 『少し、気の毒ね』と言った無神経な言葉の数々にも納得がいっていたのだ。 ただ、悔しい事には変わりない。 兄弟なのに、何故ここまで違うのか。 何度何度練習しても、どんな曲を弾いても、兄・ウェスの背に追いつくことができない。 そも、足元にすら届かない。 パーティが終わり、ウェスとその場で別れて少し散歩に出た。 こういう腐る気分の時は、夜誰も居ない道を散歩するに限る。 独り考えこみながら歩いていると、いつの間にか見知らぬ公園に来ていた。 こんなところに公園などあっただろうか、と思いながら、ソウルは気の向くままその公園へと足を踏み入れた。 広く、無限に広がるように感じるのは、今が夜で、公園だというのに外灯が一つも無いせいか。 いっそ不気味さを感じるほどの暗闇と静寂。 ただ、真円に近い月だけが空の中央にぽっかりと浮いている。 今日は満月だっただろうか? それすらソウルの記憶は曖昧だ。 全てにおいて、辻褄が合っていそうで、合っていない、この空間。 そこはかとなく感じる違和感は何か。 一種気分の悪さを感じて、入ったばかりの公園から出ようとしたとき、突然背後から声がした。 「ほぅ…これはまた…珍客が迷い込んだものだな。」 高すぎず低すぎず、どこか甘い声がソウルの耳に入った。 振り返れば、忽然と現れた一人の少年。 ソウルと同い年くらいに見える、が言葉は随分と傲岸だ。 闇に溶け込むようなマント姿で、瞳だけが月のように輝いている。 蜜色の瞳は、ソウルも初めて見た色だ。 目の前の少年が纏う、どこか高潔な雰囲気にソウルは圧倒された。 「…呼吸くらい、したらどうだ。人間?」 目の前に立つ少年がクスリ、と笑ったのが、空気の振動を通してソウルに伝わり、初めて呼吸を忘れていたことを思い出した。 誰かに見惚れて呼吸を忘れるなど、ソウルの人生始まって初の事だ。 「お前…誰だ…?」 「人に尋ねる前に、まず自分から名乗れ、とは、教わらなかったか?」 言葉はどこか刺々しいが、別段怒っている様子もなく、少年は小首をかしげた。 そういう仕草は、彼の雰囲気を和らげ、親しみやすさすら感じるのだが。 この常人ならざる気配はなんだろう、とソウルはいぶかしむ。 「俺は、ソウル。」 「…キッド」 ソウルが名乗れば相手は簡単に一言だけ返して来た。 「お前は、何者だ?」 「…死神だよ、人間。」 整った顔立ちが、面白そうに笑む形にかたどられた。 どこか緊張していたソウルは、その言葉に体の力が抜けた。 馬鹿馬鹿しいにも程がある。 からかう相手は選んで欲しいものだ。そう思って口を開こうとしたとき、少年は面白そうにソウルを見つめたまま、 マントから右腕を伸ばして、ソウルの心臓を指差し、告げた。 「俺の結界内に入って来られた、という事は。貴様、死にたがっていたのか?」 「なっ…?!」 死にたいとまでは思っていなかったが、 生きる意味や"目的"が判らなくなっていたソウルは、目を剥いた。 目の前の少年…キッドに指摘されるまで気づかなかったが、 自分はもしかしたら死にたかったのかも知れない。 自然とそう思うことができた。 「死ぬなど止めておけ。貴様一人死んだところで世界は変わらん。 俺の仕事を無駄に増やすな。」 本来なら、貴様はあと60年は生きるのだからな、と続けられてソウルは瞠目した。 「…何を…莫迦な…」 何とかそう呟くのが精一杯。 気持ちに余裕が無いのか、出会ったばかりのキッドに、ソウルは胸中掻き乱された。 目の前のキッドはソウルの言葉など気にする様子も無く、マントの内側から手帳らしきものを取り出して、ぺらぺらとめくっている。 「ソウル=エヴァンス。ピアニスト。家族構成は、両親に兄が一人。 兄の名はウェスティン。天才的ヴァイオリニストねぇ…。 ふむ…。 なんだ、兄と比較されて拗ねているのか?」 存外子供だな、と面白そうに呟くキッド。 手帳を読み上げながら、片手を顎に当てている。 その姿すらどこか絵画のように様になっていた。 キッドが読み上げた内容は全くもって正しい情報なのだが。 一体どこからそんな情報を入手したのか。 個人情報だろう、とソウルは思った。 けれど、最後のキッドの"拗ねているのか"という言葉に引っかかってしまい、 もはやどこから突っ込んで行けば良いやらわからない。 いろいろと飽和状態だ。 「貴様くらいの年齢では、拗ねるのも仕方のない事だ。 まだ分別もつかん坊やだからな。気にするな。人とは、悩みがある方が成長する。」 「なんだその言い方。お前だって俺と大して年は変わらないだろ。」 「外見だけで判断するなよ、人間。」 「"人間"じゃねぇ。俺は"ソウル"だ。」 どこか腹が立ち、ソウルが言い返すと、キッドの表情が面白そうに崩れた。 「ほぉ…ならば、ソウル。弾いてみろ。聞いてやろう。」 キッドの唇が、"ソウル"とかたどり、音を発したことに喜びを感じる自分に驚いた。 気持ちの良い音程で紡がれる言葉は、どこか脳が痺れるようで。 そう感じるのは自分が音楽家の端くれだからだろうか、とソウルの頭によぎる。 「弾くって…何を?」 「ピアノに決まっているだろう?」 そういって、キッドは手帳をマントにしまいこむと、おもむろに右掌を二人の間に翳した。 現れたのは、見事なグランドピアノ。 何故だろうか。ソウルはなんだかもう驚く気にはなれなかった。 そして、『弾きたい』と思ったわけでも『弾こう』と思ったわけでもないのに、 ふらふらとそのピアノに近づき、椅子に腰掛けてしまった。 それを見てキッドは満足したのか、グランドピアノに寄ってきた。 「あれは、なんと言ったかな…即興曲、と言ったか?ショパンの。あれを一曲所望しよう。」 「即興曲…?もしかして、幻想即興曲の事か?」 「さぁ?ただ、あの曲は俺のために書いた、と本人が言っていた。久しぶりに、聞きたくなったんだ。」 聞かせろ、というキッドの口角が楽しそうに上がる。 「ショパンがお前のために?」 まさか、と続けながら、ソウルの指は鍵盤に置かれた。 出会ってまだ数分ではあるが、キッドの行動や言葉を考えるともしかしたら、彼は本当に死神で、 ショパンとも出会っているのかも知れない。 そこまで考えて、ソウルは頭を振った。 (…考えすぎだ…) 自嘲しながら、鍵盤に集中する。 一呼吸置いて、音を確かめるように鍵盤に指を置いて、弾き始めた。 改めて弾いてみると、なるほど、序盤のこの美しくも流れるような激しさは、キッドに出会ったときの衝撃に似ている。 中盤に穏やかな曲調になるのは、キッドとの会話を彷彿とさせた。 そしてまた最後に激しい曲調へ。 5分ちょっと鍵盤を叩き終え、ふっと呼吸を整えるとキッドは宙に浮きながら、足を組んで座るような姿勢で聞き入っていた。 「…おい…」 ぎょっとしたが、いちいちもう驚くのも面倒くさい。 ソウルは終わった、とキッドに声を掛けた。 「ショパンほど、とはいかなかったが、貴様もなかなかだと思うが?」 「…褒めすぎだろう。」 吐いて捨てるように言えば、キッドが心外だと言わんばかりに、ソウルに目線を合わせる。 「死神であるこの俺が、珍しく褒めてやったんだ。素直に受け取れ。」 「…才能がない事くらい、自分でわかってる。」 「くだらんな。」 「お前っ…!お前に何が解かる?! 俺の何が…っ!」 目の前にあったマントの衿をぐっと掴んで、キッドを力任せに引き寄せた。 一発殴ってやろうと思ったのに、なぜかできなかった。 吸い込まれそうなほど澄んだ瞳に射竦められて、身動きが取れなかったのだが、 音楽家が手を音楽以外に使うなんて、と瞬時に判断したからという事にしたい。 「それが、くだらない、と言うのだ。 たかだか100年も生きられないお前達に、一体なんの才能が必要だ? 俺から見れば、人間なんぞどいつもこいつも、くだらない存在だ。」 「…言ってくれるね…」 「だからこそ。限りある命の中で、自分の思うとおり足掻いて生きてみろ。 なんの才能も要らん。ソウル、お前はお前だ。兄、ウェスティンでもないし、他の誰でもない。 お前の指で、お前の思うとおり、お前の音を奏でれば良い。」 マントを掴んでいた手をそっと握り返されて、ソウルは身を竦ませた。 白磁を思わせる肌は、『冷たそうだ』という印象を受けていたが、触れられれば暖かい。 握られた指先から熱が伝わり、凍り付いていた心までもが解けてゆく錯覚に陥る。 「もう、俺の結界に迷い込むなよ。 お前はお前だ、ソウル。しっかりとあと60年、せいぜい足掻いてもがいて、 そのくだらん一生を燃やし尽くせ。」 艶然と微笑むその顔に暫し見入られ、ソウルは呟いた。 「お前…一体何者なんだ…」 「…お前は本当に莫迦者なのか?言ったろう。死神だ。」 「イメージと違う。」 「人間の下等なイメージを俺に押し付けるな。」 苦笑しつつ、キッドはソウルから離れる。 気づけばピアノもない。 「じゃあな。もう行け。」 「…また会えるのか?」 自然と問い返した言葉に、キッドが数回瞬きを繰り返す。 虚を突かれた、まさにそんな表情。 その表情を見てソウルは胸のすく思いがした。 思い返せば出会ってから十数分、キッドには翻弄されっぱなしで、散々莫迦にされた気がするから。 「…俺は死神だ、と言ったはずだな。」 「言ったな。」 「会えるとすれば、次はお前が死ぬときだな。」 「…じゃあ60年後…?」 「そうなるだろう?」 「長ぇな。」 ソウルの言葉に、キッドが呆れたように目を見張った。 「とんだ莫迦がいたものだな!死神に会いたいなどと言い出したかと思えば… 60年が長いだと?普通の人間はもっと未練たらしく60年どうやって生きよう、とか、考えるものだろう?!」 「だって、俺、どうやら死神に魅入られたみてぇだし…。60年なんて長い。」 「…戯けが…」 月光を背負っているせいで、逆光となり表情は良く見えないが。 目の前の死神は、もしかしたら耳まで赤くなっているのではないだろうか。 「俺に会いたかったら、せいぜい今際の際まで、胸を張って生きろ!」 いいな!と強く言い残してキッドは消えた。 気がつけば、公園だと思っていた場所はただの道で。 その先にはソウルが良く知るカフェがある。 世の中には不思議な事があるものだ、と思いながら、ソウルはそっと微笑んだ。 胸中に、澱のように溜まっていた気持ちはもう跡形も無く。 確かにキッドの言うとおり。 ソウルはソウルでしかない。 今ならば、ウェスの『お前の音が好き』という言葉も、素直に受け止められる気がした。 ソウルは踵を返し、家路を急いだ。 帰ったらまず、もう一度、幻想即興曲を弾きたかった。 あの綺麗な、蜜色の瞳を持つ死神を想いながら。 |