夕立


じっとりと蒸し暑い空気の中、蝉だけが今を盛りとばかりに鳴いている。
その羽音の耳障りな事も、湿度の高い湿気た空気も、真っ黒な雷雲が立ち込めてきた今、払拭されるだろうと予測された。
夕立が来る。そう期待感が高まる。

キッドは、夕立が好きだった。
雷鳴を伴い、真っ黒な雲から痛いほどに激しく落ちてくる水が、まるで全てを洗い流してくれるようで。
この世の全ての煩わしさを、消し去ってくれるようで。

蒸し暑さからくる不快感も、目の前の光景から感じる不快感も、早く洗い流してくれれば良い。そう思っていた。

もうじき夕立が来るというのに、マカ、ソウル、リズ、パティ、ブラック☆スター、椿の面々は蛇口にホースをつけて、水を撒いている。
少しでも暑さを和らげよう、という試みから始まったのだが、既に本来の目的からは逸れ、お互いに水を掛け合ってじゃれるという、夏特有の遊びに変わってしまっていた。

はじめは加わっていたキッドも、水の標的にされ、早々に離脱した次第だ。
今はみんなより少し離れたベンチに腰掛て、ぼんやりと水を掛け合ってはしゃぐ光景を見つめている。
遠くで雷鳴が聞こえ始めた。じきに、雨が降るだろう。

そして、五分もしないうちに空がさらに黒くなり、いよいよ水滴が落ち始めた。
遊んでいた面々は慌てて水を止め、校舎の中へと戻っていく。

「おーいキッド!そろそろ戻るぞー」
「…あぁ…」

リズの呼びかけに、おざなりに答えてキッドは腰を上げた。
ぽつりぽつりと大人しく降り始めた雨は、わずかの間に激しく降り注ぎ、まるでバケツをひっくり返したような雨量は清々しさを通り越して、ある種恐怖感を抱かせるに十分だった。

そんな激しい雨の中、キッドはただ、その場に佇んだ。
雨はあっという間にキッドの全身を濡らし、髪の毛からも更に水滴が落ちるまでになった。
鼻梁を、頬を、顎を辿る雨は、首筋、肩、腕、キッドの全てを洗い流すように流れてゆく。
遠かった雷鳴は、今はとても近く、光と音がほぼ同時に響き、キッドのその身を震わせた。

髪が額に張り付くのも、服が肌に張り付くのも気にせず、
ただただ、立ち尽くした。
夏の熱気は消えたように感じるが、キッドの胸の中にある澱のような感情は一向に消えない。

ソウルの紅い目が、マカの松葉色の目を見て優しく緩んだ、その光景が、まるで絵画のようにキッドの脳裏から離れない。

稲光に混じり、その光景が何度もフラッシュバックする。
そしてその度に、どす黒く、厭な感情がキッドの胸中に巣食っていく。
消化しきれない感情が、昏く重く溜まってゆくのだ。

今までこんな感情は知らなかった。
辛くて苦しくて、吐き気がしそうだ。
この雨が、夏の熱気と共に己の中から洗い流してくれれば良いのに、と思う。

「ずぶ濡れじゃん。どうしたんだよ?」
「……別に…」

俯いて、土砂降りの雨の中に佇んでいると、背後からソウルの声がした。
ゆっくりと振り返れば、同じくずぶ濡れのソウルが居る。

「おまえこそ、ずぶ濡れじゃないか。
何故、みんなと一緒に戻らなかった?」
「戻ったよ。でも、お前がいなかったから、戻ってきたんじゃねーか。」

腰に手を当て、反対の手で濡れた髪を掻きあげる仕草も、憎らしいほど様になっている。
ふっと、キッドは鼻で笑って、シニカルな笑みを浮かべた。

「俺がいないと、寂しいのか?」

もちろん、冗談に決まっていた。
キッドの脳裏には、先ほどのソウルとマカの表情が焼きついて離れないのだから。
キッドが居ないからと言って、ソウルが寂しがる理由がない。
ただ、キッドを心配して戻ってきたに過ぎないのに。
キッドはますます笑みを深くする。
今度は、自嘲の笑みなのだが。

(我ながら、馬鹿な事を言った。)

キッドはさり気なくソウルから視線を外し、激しく降りしきる雨の向こうにぼんやりと見える町並みへと視線を投げた。
遠くでも、稲妻が走っている。
その蒼白いような、薄紫のような光の筋が、キッドは好きだった。

暫くした後、無言だったソウルに手を取られ、ぐっと引き寄せられる。
驚いて見上げれば、そこには真剣なソウルの顔があった。

「もし、そうだって言ったら、お前どうすんの?」
「……ソウル…?」

真剣な表情、いつもより低めの声に、キッドは気圧される。
マカを見て緩んでいた瞳とは違う、恐いくらいに真剣な瞳。
それを見てキッドは少なからず怯えた。
変な冗談を言って、ソウルを怒らせてしまったのだろうか。
どこか飄々とした普段のソウルの雰囲気と今では、随分と違っていた。

こんなソウルは見たことが無い。

キッドは瞬間的にソウルの腕を振りほどこうとした。
けれど、脳から命令は出ているはずなのに、体はピクリとも動いてくれなかった。

「お前がいなきゃ、息も出来ないくらい、好きだって言ったら。お前はどうする?」

ソウルの言葉のすぐ後に、雷光と雷鳴が轟く。
我知らず、キッドは目を見開きソウルを見つめた。
凝視した、と言った方が近いかも知れない。
暫くソウルの言葉の意味を解釈するのに時間を要した。

「…からかっているのか?」
「からかってない。マジ。」

ようやく答えたキッドに、ソウルは即答した。
先ほどから雨に打たれて全身びしょ濡れのはずなのに、キッドはなぜか口だけが異様に渇いているような錯覚に陥る。

「それにしては、随分と卑怯な言い回しだな…」
「じゃあ、言い換えるか?
お前がいなきゃ、息も出来ないくらいに好きだ、キッド。」

きっぱりと宣言され、今度こそ、キッドは眩暈がした。
恐いくらいに真剣な瞳に射竦められ、その低い声が紡ぐ言葉の甘美さが、キッドの平衡感覚を狂わせる。

男を感じさせる、節くれだったソウルの指が、額に張り付いたキッドの髪を掻きあげた。
その指の思わぬ優しさに、キッドに巣食っていた厭な感情全てが払拭されてゆく。

「……死神に……」

ソウルを真っ直ぐ見つめ返し、キッドは一端言葉を切って深く呼吸をした。

「…死神に告白をして…魂が無事で済むと、思うなよ。」

何とかそれだけを告げて、キッドはソウルの肩口へ自らの額を押し当てた。
今、おそらく自分の顔は真っ赤だ。
もしかしたら耳まで赤いかも知れない。そう思い、表情を隠したのだが。

ソウルのほっとしたような、先ほどまでの、極限まで高められた緊張した空気が解れる気配を感じた。

「それって、俺とオツキアイしてくれるって受け取っていいんだよな?」
「………好きにしろ…」

先ほどまでの激しい雨と雷鳴は遠のき、今や、穏やかな雨が少し残るだけになっていた。
そして、夕立後の涼やかな空気が風を運んできた。

夏の熱気は夕立によって払拭され
キッドの澱は、ソウルによって払拭された。