空気


「どうして?ママは、どうして変わっちゃったの?」
泣きじゃくる少女の頭を、リズがゆっくりと撫でる。
本当は、見せたくはなかった。
けれどどうしようもできなかった。

少女の病は重かった。
その治療に掛かる費用も、投薬代も、一般家庭でまかないきれるものではない。
朝から晩まで働き詰めて、ついに少女の母親は犯罪に手を染めた。
魔女の手先となって、悪人も善人も関係なく、魂を狩る手伝いを。
少女の命を救うために、自らの魂を犠牲に。
理由はどうあれ、悪に染まってしまった魂は、悪人の魂リストに記載された。
そして、その魂は死武専生により狩取られる運命。

薬を買いに出かけたまま、帰宅しない母を迎えに出た少女は、そこで姿の変わりきった母親を目撃することになった。
キッドとリズ・パティの攻撃に押され、人間の姿ではなく異形のモノへと変貌した容姿。
姿も変わり、劣化の激しかった魂は、実の娘すら認識できずに、その攻撃の矛先を我が娘へと向けてしまったのだ。

反射的に、キッドは少女を庇い、
そして、少女の目の前で、母親の魂を狩った。

少しだけ母の面影を残すのか、変貌しきり、今はただの肉片と化してしまった物体を見つめて泣きじゃくる少女。
沈痛な表情でリズは少女を抱きしめ、パティはキッドの側に寄り添った。

「どうして…?なんで…ママは動かないの?
どうして、私を、襲ったの?私が、病気だから?」

少女の涙も、横隔膜の痙攣も止まらない。
キッドは唇をかみ締めた。
「お前の母親は、悪人だ。」
「嘘だよ!ママは優しかったもん!嘘つかないでよぉ…
ママを…ママを返してぇ!!」
キッドに伸ばされる幼い手。
その暴走する感情すら抱え込むように、リズは少女を抱きしめるが、効果はない。
「泣くなよ…頼むから…」
困り果て、自らも泣きそうになるリズと、キッドを抱きしめるパティ。
「…後で…死武専の教師が来る。保護してもらってくれ。」
キッドはなんとかそれだけ呟くと、さり気なくパティの腕から逃れ、リズの横をすり抜けた。
「キッドくん…」
パティは声を掛けたが、伸ばした指はキッドに触れることはかなわず。
また、声を掛けられる雰囲気でもなかった。



キッドはベルゼブブを飛ばして、街の郊外まで出た。
あとで姉妹を迎えに行かねばならないが、今はあの少女の視線に耐えることができなかったのだ。

(苦しい…うまく、呼吸ができん…)

丘の上に、1本だけそびえ立つ古い巨木の元にたたずみ、キッドは巨木に背を預けた。

死神という職務を理解しているつもりだった。
悪人の魂を狩り、鬼神復活を阻止する。
揺ぎ無い信念と価値感、絶対的な正義。

神であるための判断基準は全てにおいて公平で、例外があってはならない。
そして、今日のあの時まで、自分は間違ってはいないと。
キッドはそう、思っていた。

けれど、あの少女とその母親は…。

「揺らいでは…ならない。俺の揺らぎは世界の揺らぎ。
俺の迷いが世界の迷いとなるのだから…」

言い聞かせるように呟いてみるが、トリガーを引いた感触、少女の悲痛な叫び声、
狩られる前の、母親だったモノの、悲しげだがどこか安心したような表情が脳裏をかすめる。

「…っう……げほっ…」

不意にこみ上げた吐き気に、溜まらずキッドは蹲って胃の中のモノを吐き出した。

苦しい。
息ができない。
吐き気がとまらない。

「うっ…うぅ…」

涙で、めまいで、視界が歪む。
上手く呼吸ができず、脳に酸素が回らない。

蹲っている状態から何とか立ち上がろうとして、
ふいに腕を取られた。

「…っとに…なにやってんだよ、キッド。」
「ソウ…る…」

視線を上げると、涙でぼんやりする視界に見慣れた銀色が目に入った。

「お前は、間違ってねーよ。お前は、お前のままで良い。」
「…なぜ…そう言い切れる…?」
「お前が、この世界のルールだから。
神に例外があっちゃいけねーだろ。お前はお前のままで良いんだよ。考えんな。」

ゆっくりと頭を撫でられると、呼吸困難も吐き気も治まってきた。

「しかし、オレとて間違いがないとは言い切れん…」
「気にするな。お前が取りこぼしたものは、俺たちが拾い集めてやる。」
「ソウル…」
「お前は、絶対的な存在でいろ。
救える者は救って、切り捨てる者は、容赦なく切り捨てろ。迷うな。」
強く、断言するソウルに縋り、キッドはソウルのジャケットの布を握り締める。
「しかしそれでは…あの少女は…」
「例外は、俺たちが何とかしてやる。それが、仲間だろ?」
その言葉に、涙で濡れた双眸が見開かれ、やがてゆっくりと緩む。
「…ソウル…ありがとう…」

涙も止まり、瞳に溜まった分はソウルの指がそっと拭う。
うまくできなかった呼吸も、今はできる。

「お前は…オレにとって空気のような存在だな…」
「…それって褒められてんの?けなされてんの?」

苦笑いのソウルに、キッドはふんわり微笑んだ。

「オレの周りにあるのが当たり前で、それに気づかない時の方が多いのに。
…なければ、生きてはいけない。」
「…それってすっげー殺し文句。」

少し低い位置にある、キッドの肩に腕をかけて、ソウルはそのままグイと引き寄せた。
きつく抱きしめて、キッドの首筋に鼻先を埋める。

「迎えにいってやろーぜ、武器姉妹を。」
今頃、マカがフォローに回ってると呟いて、ソウルはキッドの香りを胸に吸い込んだ。