夕暮れ時。
ネバダ州にあるデス・シティーの空気は乾燥していて、気温が高くてもさらりと過ごしやすい。
そのはずなのに。
ソウルは言いようの無い気分の悪さを感じていた。
体感的にどうこう、という訳ではなく、何か、魂がざわざわと落ち着かない。
まるで自らの魂が、この場所は危険だと警鐘を鳴らしているようだ。

マカに頼まれた調味料を買出しに出かけた帰り道。
今に限らず、家路を急ぐために良く通る道のはずなのに、なぜか普段は感じることの無い違和感。
この拭いきれない違和感に、魂がざわついているのか。
ソウルは良く分からない不快感を感じたまま、急いで帰宅するべく歩調を速めた。
歩を進めれば進めるだけ魂が五月蝿く騒ぎ、ソウルはこの不快感に遂に足を止めてしまった。
なぜか、これ以上歩を進めることができない。

魂が感じる、恐怖に似たざわつき。

(…気持ちが悪い…)

ソウルは手にしていたビニール袋を持ち直した。
一度呼吸をして、周囲を見渡す。
いつも通りの道。家並み。街路樹。
普段と違うことなど何もない。

(そのはず…だ。)

ただ一つ気になること。
それは、普段であればまだ人々が行交うはずの時間帯であるにも関わらず、
人どころか猫の子一匹見当たらないことだ。
ソウルはゆっくりと視線を巡らせる。
普段と違う箇所を探すために。

狭く入り組んだ路地。
立ち並ぶ商店。だが、普段見かける店主達の姿はない。
子供達の歓声も街の喧騒も、気がつけば無い。
夜だってこんなに無音である事はないのではないか。

そして、ふと巡らせた視線の先に、見慣れた姿を発見した。

「キッド…」

思わず声に出して呟いたが、キッド本人には届かなかったようだ。
いつもしっかりとした足取りで歩くキッドが、まるで湖面を歩むようにゆらゆらと覚束無い足取りで居る。
その只ならぬ気配に、暑くはあっても決して寒くはない気候の中で、ソウルは寒気を感じた。

恐怖、戦慄、畏怖。

その華奢な体からは、信じられないほどの荘厳な雰囲気が立ち上っている。
声が届かなくて良かった、ソウルはそんな事を思いながら、この魂のざわつきの正体を知った。
自分の魂だけではない。ほかの人間も、動物も隠れ忍び、並ぶ街路樹や草木からは落ち着きのない気配を感じる。
その全ては、おそらく目の前のキッドが原因だろう。
動物だけでなく、自然すら圧倒するこの気配は一体何か。

当のキッドは何を気にする風でもなく、そぞろ歩きをするように道を行く。
見ようによっては何かを探しているように見えるが、果たしてキッドは目的のものを見つけたようだ。

ある一本の街路樹の下、蹲るように身を横たえる一匹の猫。
多分、体を病んでいるのだろうその猫は、キッドの気配を感じても動くことすら出来ないようだ。
身がよだつような恐ろしい気配を振りまくキッド。
普通の動物ならば一目散に逃げ出すはずだ。
それが、今のこの道の現実。

猫を見つけ、金色の瞳が半眼になる。
その様子は普段の彼とは違って、近寄りがたい。
そういえば、キッドは死神なんだった、とソウルは今更ながら実感した。
死武専では級友として周囲に溶け込んでいるキッドだが、
今、目の前に居るのは死神そのもの。その場に居るだけで他の生命を怯えさせる程の魂。
いつもつるんでバカをやっているせいか忘れていた。
彼は神で、この世界の頂点に君臨する存在なのだ。

キッドは猫を抱え上げると、その体を握り締めた。

「ぎゃっ……」

抱きしめる、という表現とは程遠い。
握り締める以上に握りつぶす、と言わんばかりで、猫からも苦痛の悲鳴があがる。
少し離れた位置に居るソウルからも確認することができる、猫の口端から溢れる泡。
ソウルは思わず目を逸らした。
その瞬間、猫の断末魔が聞こえた。

信じられない、それがソウルの感想だった。
普段のキッドは命を慈しむことはしても、無駄に殺生するようなマネはしない。
それなのに、今目の前にいるキッドは。
まるで"当然"と言わんばかりに猫を握りつぶした。
眼前に現れた、殺したばかりの猫の魂を愛しそうに見つめ、そして亡骸を打ち捨ててその魂に口付けた。

厳しい表情から一転、魂をその身に取り込み、キッドは満足したようだ。
半眼だった瞳が緩み、その表情はまさに極上の笑みで彩られる。
ソウルの位置からでもキッドのその横顔がうかがい知れた。
くるりと振り返り、また覚束無い足取りで歩き始めるキッド。
そしてひたり、と立ち尽くしたままのソウルに目を止める。

視線が合った瞬間、ソウルは魂が抜かれるような錯覚に陥った。
いつもは魂を狩る側に立つ自分が、キッドの金色に見据えられた途端に、狩られる側に立った感覚を味わう。
悪人の魂を食べる自分が、逆にキッドに魂を食われてしまいそうだ、と本能的に感じ取った。
魂のざわつきは恐怖に変わり、ゆっくりと歩み寄ってくるキッドに、ソウルは2、3歩後ずさった。

「ソウル…」

普段、低く甘く感じる声が、今は胆の底から冷えた、冷徹な声に聞こえた。
ゴクリ、とソウルは我知らず口内に溜まった唾を飲み込む。
言いようの無い恐怖はキッドの歩みと共に強くなり、今にも叫び出してしまいたいくらいだ。
今黙ってキッドの挙動を見つめているのは、
みっともなく叫び、逃げ出すような事だけはしたくないという、なけなしの矜持の賜物だった。

「どうしたんだ?こんなところで…」

にこりと微笑むキッドだが、眼は笑っていない。
ひたり、とソウルの魂を見つめている。

「お前こそ…こんなところで、何してたんだよ?」

先ほどの一部始終を見ていたソウルとしては、キッドの真意を知りたくもあった。
普段、あれほどまでに神経質なのに、今のキッドはどうだろう。
まるで呼吸をすることと同じように猫を殺し、その骸を打ち捨てて魂を食らった。
ソウルの知っているキッドであれば、そんな無神経な事は絶対にしない。

それに、死神様からお許しが出ている魂は、悪人だけではなかったか。
あの猫が、今までに一体どんな悪さをしたというのか。
ソウルには解からない事だらけだった。

「別に…魂を狩ってるだけだ。」
「あの猫…狩って良い魂だったのか?」
「さぁ?俺は知らない。」
「…キッド…」

遂に、ソウルの目の前に立ったキッドが、ソウルに指を伸ばす。
まるでスローモーションのように見えるゆっくりとした動きに、ソウルの魂は恐怖に慄いた。
胸に指が触れたかと思うと、まるで湖面にその手を浸すように自然に、ソウルの胸に指をめり込ませるキッド。
痛みは感じない。
キッドの手はソウルという物体を通り抜け、直に魂を触ろうとしているようだった。

「…どうしたんだよ…ちっともお前らしくない。」

何とかそれだけ呟いて、今のこの異常な状態から逃れようと試みた。
痛みは無いが、魂に直接触れようとするキッドの指に拒絶反応を起こして、ソウルに不快感を与える。
膝をついて、吐きそうになるほどの感覚。
普段は感じられない己の魂を、キッドが触れることによって感じた。

「俺らしい…?ソウルの言う"俺らしい"とはどんな俺だ?」

キッドの指先が、ソウルの体内で魂の外郭に触れているのが分かった。
指で撫でるように、くすぐるように何度も何度も上へ下へと撫でられて、ソウルはいよいよ吐きそうだ。
軽く小首をかしげて微笑うキッドが、ソウルの紅い目を見据えた。

「普段のお前なら、少なくとも、あんなふうに無造作に命を奪ったりしない。」

不快感に耐えながら、ソウルもキッドの金色から視線を逸らさずに返した。
不思議そうな顔をするキッド。幾分、ソウルの知るキッドに戻ってきている気もする。

「俺は死神だぞ。魂を狩り、世界の生死を管理するのが役目だ。」
「それでも、俺の知ってるキッドなら、殺さない。」
「お前の言う"キッド"と今の俺と。どちらが本当の俺なんだろうな?」
「…どういう意味だ。」

ソウルが反論すれば、キッドは可笑しそうにくすくすと笑った。

「どちらが本当の俺だと思う?」
「…今、目の前に居る方は偽者だと思いたい。」
「それは、残念だったな。今お前の目の前に居るのが、"デス・ザ・キッド"だ。」

勝ち誇ったような、宣言めいた言葉に、ソウルは目の前が暗くなった。
体内で、ソウルの魂がわしづかみにされる。

「このまま俺が手を引けば、お前は死ぬな、ソウル。」

握り締められた魂が痛い。
ソウルが叫び出さずに何とか耐える事が出来るギリギリの痛み。
痛みと吐き気で目がくらむ。
チカチカと視界が光り始め、視野はじわじわと狭まっていく。

「気絶するなよ。」

残酷で、冷酷な声がソウルに命令する。
キッドの掌からほんの少し力が抜けて、ソウルはようやく少し呼吸が出来るまでになった。
それでも痛みで浅く繰り返すことしか出来ない呼吸は、確実にソウルの脳から酸素を奪ってゆく。

「…魂が、怯えているな…。」

歌うように告げるキッド。
ソウルは、体内に入り込んでいるキッドの腕を掴んで、何とか引こうとするが、力が入らず侭ならない。

「良いのか?このまま引けば、お前の魂は抜かれるぞ?」

艶然と微笑むキッドの瞳に情けない表情の自分が映った。
今目の前に居るのは誰だろうか、本当にキッドなのだろうか。
悪い夢でも見てるのではないだろうか。

ソウルは何度も自問する。

気づけば手にしていたビニール袋は足元に落ち、調味料のうち瓶に入っていたものは割れて中身がこぼれてしまっているようだ。
この周囲に立ち込める香りは何だろう。オリーブオイルか。
マカに言われて結構高いものを買ったのに、と、どこか現実逃避をはかりつつある自分自身に、ソウルは笑った。
直面する"死"というものを直視できないで居る。

それは相手が"キッド"で"仲間"で"友達"だからという思いと、
こんなことが現実に起こりうるはずが無い、と思い込んでいるから。

「この世で一番美しいものはな、"死"に怯え恐怖する魂だと、知っているか、ソウル?」
「……お前らしくもなく、下劣な事言うんだな。」

俺の知ってるキッドはもっと高潔だ、とソウルは吐き捨てる。

「お前の知ってる"キッド"は、ただの偶像だ。あんな腑抜けの神が存在するものか。」

俺が作り上げた、宣材用の顔だ、と鼻で笑うキッド。
ソウルは信じられない気持ちで頭の先から足の指の先まで支配される。
あの神経質で、シンメトリーバカで、躁鬱が激しく、誰よりも正義感の強いキッドが偶像だと言うのなら。
ソウルはその宣材用の"キッド"こそが本物だと信じたかった。

目の前のキッドはとても神々しい。
白磁の肌も、金色の瞳も、細身の体にぴたりと合った黒のスーツも。
魂だって気高く、厳かなオーラが出ていて、まさに"神"と呼ぶにふさわしい。

けれど、ソウルはどこか間の抜けた"キッド"の方が、彼らしいと思えてしまう。
その間の抜け方すらも目の前のキッドの演技だというのだろうか。

力なく頭を振って、ソウルは脱力する。

「魂抜きたきゃ抜けよ。なんせ、お前が"死神サマ"だもんな?」
「抜きたいのは山々だがな…。残念な事にお前は今必要な戦力だ。」
「…へぇ…魂を抜かずにおいていただける、って?」

卑屈に問えば、キッドの笑みはさらに深くなる。

「生かしておいてやる。今は、な。」

ゆっくりと魂から指が離れて行き、ソウルの胸からキッドの白く華奢な指が引き抜かれた。
そして、すっとキッドの流麗な顔が近づいて来たかと思うと、ソウルの耳元で甘く囁いた。

「お前、虚偽の"俺"が好きだろう?」
「なっ…?!」
「真実の俺を黙っているならば、少しの間お前のその想いに付き合ってやっても良い。」
「いい加減にしろっ!」

キッドを殴るつもりで思い切り腕を振り上げて振り下ろしたが、なんなくかわされてしまう。
挙句、先ほどまで魂を握られていたダメージか、体がバラバラになってしまったかのように上手く動かない。
脳の命令に対し、神経が統一した動きを取れていないようだ。
倒れこんだ体は容赦なく道端に倒れこんだ。

「意地を張る意味が分からんな。この身を差し出してやると言っているのに。不満か?」
「莫迦にするな。差し出されたモンに手を出すほど落ちぶれてもいねーし、俺はお前が好きなんじゃない。」
「…ふん…俺の偶像を好いた魔鎌…か…。」

道に這い蹲るソウルをキッドは上から憐れんだ瞳で見下した。
その顔で、その声で、そんなセリフを吐くな、そんな態度を取るな、と叫びたかった。

「…哀れだな。」

吐き捨てるように呟き、キッドはゆらりとその場から煙のように消えた。





の王






死神らしい死神キッドを目指してみました。
ソウル → キッドの幻想が崩れた瞬間。
冷酷キッドも好物でございます。
本当は、ここに死神様も絡めたかったのですが…。
それは続きを書いてから、と思っております。