最近、眠ることができない。
キッドは軽い不眠症に悩まされていた。
夜になり、ひとりベッドに潜り込むと、何故か言い知れぬ恐怖を感じる。
それが一体なんなのか、正体を突き止めようとするのだが、
途中で頭が割れそうなほど痛くなる。

(俺は、一体何時から、夜が恐くなったのだ…?
否、正確には、一人でベッドに横になるとき、だ…)

キッドはそこまで考え、いつもの頭痛に襲われる。
落石に遭ってからというもの、時折、こうした後遺症に悩まされる。
そして、激しい頭痛に苛まれる時には、必ず、ふらりと父・死神が現れた。

死神の大きな手に包まれ、あたたかいホットミルクを手渡されると、
それだけで頭痛は和らいで、気づけば眠りに落ちている。

キッドは己の身に起きている異変に気づきながらも、
死神から与えられる、温もりと愛情の心地よさに、ただ、安堵の息を漏らすだけだった。











あの褐色の肌を持つ男が現れてから、キッドは視線を感じるようになった。
特に悪意は感じられないが、ざわざわと、肌が粟立ち、身が慄く。

(あの、ノアとかいう男か…?)

周囲を見渡し、神経を研ぎ澄まし、魂の端でも捕らえようと思うが、上手く行かない。
ただ視線を感じる、という第六感に近い、感覚的なものなので、誰にも言えずにいた。

死武専の授業では、窓際の席には座らないようにした。
体育の授業もなるべく出席しないで、図書館に篭るようになった。
そんなキッドを、死神も、リズもパティも責めず、キッドの好きにさせていた。
死神だけならまだしも、リズやパティまでもがキッドを自由にさせておく、という状況は、
キッドを不審がらせるだけではあったのだが。

その日の午後は天気も良く、珍しくいつもの視線が感じられなかった。
おそらくそのせいだろう。いつになく気分が良かった。
最近のどこか陰鬱な気分を吹き飛ばそうと、思い立ってベルゼブブで一人出かけた。

乾いた空気と、照りつける太陽の中、なんとはなしに、キッドは水を求めて海へと飛ばす。
頬や髪を撫でる風が心地よかった。
そういえば、最近はベルゼブブで任務に就く、という事が無い。
むしろ、任務が与えられなかったのかも知れない。
当初は頭を打ったため、と解釈していたが、それにしてもキッドが怪我をしてから随分と経つ。
鬼神の事を考えればそろそろ戦線復帰しても良い頃だった。

「…考えてみれば、どこかおかしい。父上も、リズもパティも…」

おそらく、あの三人は何かを隠している。
そう思いながら、なんとなく、三人から聞き出せずに居た。
漠然と、知るのが恐かった。

「この数ヶ月、"恐怖"という感情が俺を支配している。」

ぽつりと呟く言葉は、すぐに通りすぎてゆく風が攫っていった。
誰に向けた言葉でもなかったが、こんな弱音を誰にも聞かれずに良かった、とキッドは胸をなでおろした。

俯いていた視線を上げると、キラキラと太陽を反射する、水面が眼前に広がりつつある。
気づけば、海の見える場所まで来ていた。



浜辺までベルゼブブで乗り付けて、砂を巻き上げて降り立つ。
少し、靴が砂に埋まって汚れが気になるが、今は気にしないようにする。
眼前の大きな海を見つめて、デス・シティーの風とは違う、潮風を受けてかるく瞳を閉じる。
最近考えることは、いつも一つだ。
今までいろいろと違和感を感じていたものの正体、それを突き止めなければ次に進めない。
そうは思うのだが、何故だか、この違和感の正体を突き止めることを躊躇ってしまう。

それに、最近は誰かから感じる視線も気になって、それどころではなかった。

「俺の、考えすぎなのか…?」
「何を考えていらっしゃるんです?キッド。」

誰も答えるはずのない呟きに、別の声が返ってきて、キッドはビクリ、と肩を揺らした。

―――この声は。

おそるおそる振り返れば、そこには褐色の肌の、長身の男が立っていた。

真っ白いランニングに、チェックのシャツは腰に巻く、といった出で立ち。
いかにも海に遊びに来た、といった風情だ。
そして、印象に残る帽子と、読めない笑顔。

「お散歩ですか?お一人で?」
「……っ…ノア……」

驚き、名を呼ぶと、ノアは、「おや」と少しだけ目を瞠った。

「わたしの名前、覚えていてくださったんですか?」

にっこりと微笑むノアに、何故かキッドの足は竦んだ。
そんなキッドを気に留めるでもなく、ノアはのんびりとした口調でキッドを誘った。

「ちょうどわたしもこの辺りに遊びに来てまして。
滞在先がすぐそこなんですよ。良かったら来ませんか?
このホテルのラウンジで出してくれるコーヒーが美味しいんですよ。
ここのクリーム・ブリュレも絶品なんですが…」

ノアの言葉に、キッドはもちろん断るつもりでいた。
だが、ここで会ったのも何かの縁かも知れない。
それに、視線の主の正体が知りたかった。そして、この男に対し、訳もなく抱く恐怖心についても。
躊躇ったのは数瞬。
キッドはゆっくりと頷いていた。





「さ、ここですよ。」

ノアに案内されたのは、浜辺からほんの少し歩いた先の、白いホテルだった。
緑の蔦に一部覆われている。アイビーだろうか。
どこかアンティーク調のそのホテルは、居心地が良かった。
日当たりの良いロビーを抜けて、クラシックの流れるラウンジへ向かった。

「でもまさか、あなたが誘いに乗ってくださるとは。
うれしいですね。何でもご馳走しますよ。」
「…貴様、援助交際しているオヤジのような発言だな。」
「そうでしょうか?」

キッドに向けられるノアの笑顔に、悪意は感じられない。
警戒しすぎていたのか、とキッドはほんの少し警戒心を解く。
椅子を勧められ、素直に座った。
ノアのエスコート振りは半端ではないので、本当に援助交際の相手をしている気分だ。

「で?ここのクリーム・ブリュレが貴様のオススメとやらだったか?」
「えぇ。ガトーショコラも美味しいのですけどね。アップルパイも美味しいですよ。」
「一体、どれが良いのだ?」

子供のように、あれもこれも、とメニューを指すノアに、キッドは苦笑を漏らす。
キッドのその表情に、ノアはふっと、心からの笑みを漏らしたが、キッドはそれには気づかなかった。

「では、こうしましょう。クリーム・ブリュレと、ガトーショコラと、アップルパイ、
全部一品ずつ頼んで、二人で少しずつ食べる、どうですか?」
「結局全部頼むのではないか。」
「わたしは強欲なんです。」

笑顔で答え、ノアはボーイを呼んだ。
オーダーが済んで、ノアはとりとめもなく、キッドに世間話をした。
ノアが珍品コレクターである事。
珍しい品があると聞けば、世界中を旅して、手に入れているという事。
キッドにとってはどうでも良い内容だったが、話の端々に、例の違和感を感じていた。
やはり、誘いに乗るべきではなかったか、と何とか席を立とうとしたとき、
ボーイが注文の品を運んできた。

「さぁキッド、どれでも好きなものから召し上がれ」

ノアに笑顔で促され、キッドはタイミングを逃してしまった。
どうしたものか、と思いつつも、スプーンで目の前に並ぶスイーツを口に運ぶ。
確かに、悪くない味だ。美味しいと思う。
ノアの言うとおり、コーヒーも美味しい。
目の前に座り、にこにこと笑みを絶やさないノアにも、不審な点は無い。

(…それなのに…なんだ…この落ち着かない感じは…?)

クラシックが流れるラウンジ内。
美味しいスイーツと、コーヒー。
目の前に座る、褐色の肌の男は不審ではあるが、今のところ、敵意や悪意は感じられない。

それなのに、感じるこの焦燥感はなんだろう。
キッドは疑問に思う。
思いながらも、平静を装いながら、スプーンを口に運ぶ。
けれど、既に味は分からなくなっていた。

そのうち、ガンガンと頭痛がし始めた。
耳鳴りがする程に、ラウンジ内のBGMが頭の中で響く。
だんだんと体が重だるくなってゆく。
ノアが何かをキッドに話しかけていたが、全く耳に入ってこなかった。

「…っ……ぁ……」

自身の体に変化が起きている、と気づくのに、そう時間はかからなかった。

「どうしました、キッド?」

目の前のノアは相変らず笑っている。
けれど、涙が浮かび始めたキッドの目には、ノアの姿は歪んで見えた。
体の奥から、じんじんと熱が這い上がってくる。
頭の中はラウンジに流れるBGMでいっぱに満たされ、思考が追いつかない。

(…一体…なんだというのだ…くそっ…!五月蝿い…五月蝿い…この第九を止めてくれ…っ!)

熱い呼吸を繰り返しながら、ふとキッドは『第九』というキーワードに反応した。

「…っん……」

体の奥に点った熱は簡単には散ってくれそうに無かった。
それどころか、逆にどんどんと体を苛む。
熱は、芯にまで達し、キッドはテーブルの上に伏してしまう。

幸いにも、周囲に人は居ない。
だからテーブルに突っ伏していても、誰も不審がらないだろうが…。

「貴様っ……なにか……俺に……」

もう、言葉も上手く出てこない。
無理に音にしようとすると、自分のものとも思えない声が出てしまいそうだった。
気がつけば、ラウンジに流れていた心地よいBGMは第九に変わり、キッドの体を苛んでいた。

「わたしは何もしていませんよ?
あぁ、でもこの第九は、懐かしいかも知れませんね。あなたには。」
「……だい……く…?」
「えぇ。」

ノアは立ちあがり、キッドの傍へよると、その耳に吐息を吹きかけるように屈んで、言葉を流し込む。

「第九が響く部屋の中で、あなたを蹂躙し、犯したのは、一月前だったか、二月前だったか…」

覚えていらっしゃらない?
続けて囁かれた言葉と、その後に耳朶を食まれ、体を走った突き抜けるような感覚に、
キッドは息を詰めた。

「あ…っ……あぁ……」

そうだ、思い出した。
何故忘れていることができたのだろう。
この褐色の肌に、何度貫かれたのか。

第九が響く部屋の中。
力を封じられ、ただの子供であった自分に対し、この男は陵辱行為をやめなかった。
それどころか実験動物のように扱ったのだ。

何度も何度も埋められた道具の感覚。
形を覚える程に、この第九が流れる室内で犯された。
言い様のない恐怖の正体はこれだった。
掴めない違和感の正体はこれだったのだ。

「あぁぁあああああっぁ!!!!!」

瞬間、キッドは絶叫していた。







キッドさんついに記憶解放。
精神的に壊れてしまわないと良いなぁ…と、思いつつ。
次は、裏世界になりそうな予感。

コミックスでまだキッドたんが捕まっている間に、なんとか完結させたいですww
ソウルを出したい、絡ませたい、とか思っていたのに、
ノアの独壇場。
次も出番がなさそうなので、その次こそは…っ!!