―――気に入らない。

『望むのであれば、殺せる』と言っておきながら、
死神はキッドを生かすために彼の記憶を改竄した。
ただノアとの記憶を消しただけではない。
アラクノフォビアの根城に潜入したこと事態、消してしまった。

それだけではない。
結局、キッドへの不完全な記憶操作や、アラクネの城に潜入した教師・生徒にいたる、
全員への情報徹底や、緘口令など上手く行くはずもなく。
死神は、一部の人物を除いて、今回の作戦に関わった人間全てから記憶を消し去ってしまった。

メデューサと共闘したことも。
アラクネの城に潜入したことも。

「ですが。記憶は消し去っても、身体は覚えてる。そういうものです。」

ノアはニヤリと口角を上げ、帽子を手に取った。











体術の授業が終わり、キッドは更衣室へと向かう。
今日は、組み手で、より実戦的なものだった。
これから、阿修羅と戦わねばならないのだから、この選択は正しい。

最近体調が優れなかったが、今日は気分も良く、多くの仲間の相手をして些か疲れた。
鍛錬場にはまだ少し生徒が残って、指摘しあいながら、組み手を続けている。
流石に、全員の相手をしたキッドは先に上がってきたのだが。

今日の最終コマというだけあって、居残りは存分にできる。
暫くみんな戻ってこないだろう。
貸切状態の更衣室へ戻り、タオルを持ってシャワールームに入った。



コックをひねって、暫くすると、温かい湯が降って来て、瞬く間に湯気に包まれた。
頭からその湯をかぶり、リズが『匂いが好きだ』と買って来るシャンプーを泡立てる。
キッドには良く判らないが、蜂蜜のような、ハーブのような、なんとも言えない甘く、
それでもスッキリとした香りは、キッドも好むものだ。

キッドは気にしたこともないが、特にこだわりがあるわけではないので、
彼女らが買って来るものを使っている。

(それにしても、パティは随分と強くなった。
一体何時の間にあれだけの修練を積んだんだ?)

滑らかな泡が、指と髪の毛の間をするすると滑る。
髪を洗い、熱い湯で泡を落とすと、同じくリズが買ってきたボディソープで汗を流す。
シンメトリーに、左右交互に洗わなければ気がすまないが、それでも風呂は好きなキッドは、
香りと泡の手触りにかなりリラックスした状態で居た。

全ての泡を落とし、バスタオルで水滴を取る。
シャワールームから出て、着替えて更衣室の外へ出ると、見知らぬ男が立っていた。

「こんにちは。」
「…誰だ…?」

せっかく上機嫌で、リラックスした状態であったのに、
目の前の不審人物に声をかけられ、キッドの状態は一気に警戒レベルへ引き上げられた。

死武専の生徒ではない。もちろん、教師にもこんな輩はいないはずだ。
デスサイズスの一人か?と思いもしたが、キッドが知らないデスサイズスがいただろうか。

褐色の肌に、白のランニング。
ハンチング帽を目深にかぶって、背を壁に預ける姿は、
どこかキッドの精神をざわざわと騒がせる。

「覚えていらっしゃらない?」
「…お前など知らない。どこから入った?」

凭れていた壁から身体を起こし、一歩近づく男。
反射的に一歩後ずさるキッド。
その反応に、男はニヤリと笑んだ。

「やっぱり、思ったとおりですね。」
「何がだ?」

話の見えないキッドは、男と距離を取りながら、
とにかくこの場から離れなければ、という思いに駆られていた。

なぜこの男に恐怖を感じるのか、恐怖の裏には怒りをも感じている自分に、
説明をつけることは出来ないが、近づいてはダメだと警鐘が鳴る。
自然と足は男から距離を取ろうとするが、男はいとも容易くその距離を縮めてしまう。

「何故逃げるんです?何もしませんよ。」

含んだような男の言葉に、キッドは不快感を露わにした。
伸ばされた手を反射的に払いのける。
きつく睨みつければ、男は軽く首をすくめて見せた。

「怪しいものではありませんよ。私はノア、と言います。」
「…ノア…?」

キッドの眉が跳ね上がったが、ノアは気にせず続けた。

「あなたとは面識があるはずなんですがね、キッド。」

ま、いいでしょう。と呟いて、ノアは簡単にキッドに背中を見せた。
遠ざかっていく背中に、キッドの中で、ざわざわと広がっていた嫌な感情が静まっていくのを感じた。

「きっとまた、会いますよ。」

背を向けたまま立ち去る男の事を、父・死神に話すべきかどうか、キッドは迷った。
また会う、と言っているのだから、きっと会うことになるのだろう。
一種逃れられない何かを、男の背に感じていた。





「で…キッド君、その男をそのまま帰しちゃったの〜?」
「ごめん、父上…」

デス・ルームでなく、死刑台屋敷に戻ってきた死神に、キッドは今日出会った男の事を話した。
死神に会うまで告げるべきかどうか、随分と迷ったが。
父の顔を見た途端、『話さなければ』と思い、褐色の肌を持つ見かけない男の話をしたのだ。

「別に怒ってるわけじゃないよ〜。でも、恐かったでしょ?」
「…どうして…?」
「だって、キッド君、割と人見知りするしぃ〜」

口調はからかっているようにしか取れないが、キッドには、死神が心配していることが伝わった。
恐怖を感じたのだから、恐かったと伝えれば良いのだが、
父を心配させたくない思いがあり、キッドはどう伝えて良いか分からない。

少し口ごもりながら、温かい紅茶を飲む。
濃い目に入れた紅茶に、たっぷりとミルクを注いだミルクティーは、父が手ずから淹れてくれたもの。
男の事が気になり、眠れずに居たキッドのために淹れてくれたのだ。

「今日は一緒に寝よっか?」

久しぶりに、と続けて、死神の大きな手がキッドの体を包み込んだ。
父の腕と、身体に包まれて、キッドはようやく安心し、頷く前に深い眠りへと落ちていった。
その様子を見届けて、死神は仮面の下でそっと微笑む。

「…それにしても、やってくれるよねぇ、ノアも。」

困ったものだ、と続けて、死神はキッドを抱え上げた。
キッドを安心させるため、キッドの寝室ではなく、死神の寝室へと連れて行く。

ミルクティーにはシュタイン特製の睡眠導入剤を混ぜた。
毒物や薬物に強い死神だが、死神の腕の中という、キッドにとって唯一安心できる場所に包まれたこと、
すでに時計の針が3時を越えていたことが重なって、上手く効いたのだろう。
通常でも効果が表れるまでに10分から30分はかかるはずなのだが、
あっけなく眠りへと落ちていった息子を抱きしめ、死神は軽く溜息を吐いた。

大きなベッドにキッドを横たわらせて、包み込むように隣に横になる。

「早く殺しにいかなきゃね。」

死神の言葉は冷たく突き放すように呟かれた。





「やぁ、ノア。」
「おや、死神。こんなところまでわざわざご足労いただかなくとも。」

そのうち、また遊びに行きましたよ、と皮肉を込めてノアは答えた。

光が届かない殺風景な部屋、簡素なベッドの上に、尊大な態度で足を組み座っている死神。
今日も仮面やマントはない。
無駄に威圧感を振りまいて、本来の彼がノアの目の前に居た。

「ま、とりあえずさ。何か着れば?風邪引いちゃうよ」
「風呂上りに突然の訪問を受けたものでね。」

死神の指摘にノアが不遜に嗤いながら答え、腰に巻いたタオルを落として服を身に着けた。
口調と姿の印象が違いすぎて、ミスマッチな感が拭いきれない。
それでも、死神から発せられる威圧感は半端なものではない。

「あまり、キッドに近づかないで欲しいんだけど。」
「おや、私を殺しにいらっしゃったのでないんですね。」

チェストと呼ぶにはあまりにもお粗末なローチェストに腰を預け、腕を組み、
ノアは正面の死神と対峙する。

「ま、それが一番早いし簡単なんだけど。
うちの生徒達のスキルも上がらないし。
ぶっちゃけ、全員に記憶操作したから、君たちとの戦いは実測値として残したいんだよねぇ。
それに、記憶操作って結構力使うからさ。まだ私も十分回復してないんだよね。」
「それは良いことを聞きました。」

潰すなら今ってことか、とノアは呟き、目の前の死神を睨みつけた。

「舐めてもらっちゃ困るなぁ。簡単には潰せないよ。私の生徒達も、私も。」

ふっと吐息をつく様に、ノアの言葉を讒言として一生に付す。
そして、死神はついっと右手を持ち上げると、左手で上半身を支え、
重心をその左手に乗せるように、身体を後ろに倒した。
上げた右手を軽く薙げば、ノアの褐色の頬に赤い筋が浮き上がる。

「…なるほど…確かに、簡単にはいかないかも知れないですね。
ですが、キッド一人手に入れるだけなら、容易いかもしれない。」
「えらくアレにご執心だね、君は。」

嫌な奴に目を付けられちゃったな、と心底嫌そうに呟く死神に、
ノアは笑って見せた。

「キッドは"死神"という、わたしのコレクションである以上に、
わたしにとって大切な存在だったようです。」
「…君が思う以上に、わたしにとっても大切な存在だよ。」
「キッドを貴方に返したこと、今すごく後悔しています。
まさか、キッドの記憶ごと消し去るとは思っていませんでしたしね。」

首を竦めるノアに、剣呑な表情になってゆく死神。

「彼を返してからというもの、一人寝が寂しくていけません。
その上残念ながら、どうにもわたしはキッド以外にその手の興味がないようで。」
「…下衆が…」

ノアの本気とも冗談とも取れない表情。
その顔から語られる言葉に、死神は上げたままの手を振り下ろす。
ノアの頬にまた一つ、傷が出来、赤い血が伝う。
十字架のようにも見えるその傷から流れる血を、ノアは左の親指で拭って、舐め取った。

「近いうちに必ず、迎えに行きますよ、キッドを。」

死神は無言で立ち上がる。
その身から溢れる殺気に耐えるのがやっとの状態で、ノアはそれでも笑みを絶やさない。

「寝言は寝てから言うんだな。」

低い低い死神の呟きがノアに届ききる前に、死神の姿は消えた。
震える足に力を込めて、ノアはその場にへたり込まないように、そっと息を吐いた。

(正直、殺されるかと思いましたが…。
この場で私を殺さなかったこと、後悔しますよ、死神…)







ノア vs 死神様 第二ラウンド。

今回は特にどちらが勝ち、という訳なく、会話のみで終了です。
なんかもっとこう、周囲の、マカやらソウルやら、主力メンバーは書き込んで行きたい感じなのですが
どうにも上手くいきません。
とりあえず、次はソウルとか、出したいんです!
展開上、ソウルが出てくる可能性は限りなく低いのですが…
そこはソウルの愛の力でなんとか。