気がついたときには、見慣れた天井が視界に入った。
意識が茫洋として現状を認識するのに数分要したかも知れない。
ただ、随分と久しぶりに感じる慣れ親しんだ枕と、ベッドの感触。
しかし、何故『久しぶり』だと感じるのか、キッドには不思議でならなかった。

キッドの記憶では、任務についてからほんの数日しか経っていなかったのだから。











キッドを連れ帰って数週間が過ぎた。
デス・ルームの果てしない空を思わせる天井の下、集まったのはスピリットとリズ、パティ。

キッドを奪還したまでは良かったが、キッド自身の精神的な疲労の深さに、
死神はノアと名乗る男に監禁されていた数ヶ月に始まり、BREWの解放、さらにはババ・ヤガーへの侵入自体、
キッドの記憶から消し去ってしまった。

死にたがるキッドを宥め、賺して、落ち着かせようと試みたが上手くは行かなかった。
そのための苦肉の策だ。
ノアには、キッドが望めば殺すことが出来る、と断言したが、好き好んでわが子を手にかける親など居ない。
死神も同じだった。
キッドが『死にたい』と思うほどの記憶ならば、消してしまえば良い。
シュタインに鎮静剤を打たせて、何とか眠りに落ちたキッドの記憶を、死神は消した。

変わりに、単独でリズ・パティを伴い別の任務に就いていた記憶を植えつけたのだ。

「ま、さ。暫くキッドの様子見るために、死刑台屋敷から外には出さないから。
リズちゃんとパティちゃんはキッドの様子を見ててくれる?
ちなみに、キッドは任務の最中で落石に遭って、戻って来たって記憶にしてあるから。」
「分かった。でも死神様、キッドの奴は本当に大丈夫なんですか?」
「どうだろうねぇ。一応記憶は書換えたけど、何かの拍子にフラッシュバックしないとも限らないし…。
その辺りも踏まえて、見ててあげて欲しいんだ。」

頼める?と問う死神に対し、リズもパティも力強く頷いた。
リズもパティも、この数ヶ月間の間ずっとキッドを心配していた。
キッドが戻ってきた折には、涙ぐんでしまったほどに。
そして、その体に残る陵辱の痕に、激しい怒りを覚えた。
パティに至っては無言ではいるが、その瞳には殺意に近い感情が見え隠れしている。

二人とも、次にノアと出会った時は決して彼を赦さないだろう。

「それでさ、スピリット君には、マカちゃんたちの方お願いしたいんだよね。
彼女たちにもキッド君はババ・ヤガーへ行かなかったって事にしておいて貰いたいんだ。」
「わかりました。…死神様、いいんですか?キッドは…本当にこのままでも?」

スピリットの問いに、死神は暫しの間沈黙した。
BREWによるキッドの能力の解放や今回の戦闘による経験値は、記憶を改竄する事によって全て消えてしまう。
今この状況下で、キッドの死神としての能力の開花を失うことは、痛手だ。

「…スピリット君…君も、子供を持つ親なら、分かってくれるよね?
もし、マカちゃんが同じ状態だったとしたら君どうする?」

表情が隠れた仮面の下でも、底冷えするような冷たい声に、スピリットは思わず背筋がぞっとした。
死神も、リズやパティと同様にノアを激しく憎んでいる。
否、彼女達以上に。
そして死神の言葉通り、スピリットにも親としての心情は理解できた。

「分かっているつもりだよ、これは私情だってことは。
でも、息子を失いたくはないんだ。」
「すみません、死神様。…俺…」

失言を詫びるスピリットに、死神はいつもの調子で答えた。

「うん。わかってるよ、スピリット君。」





一方、キッドは死刑台屋敷のベッドから身を起こし、いつものように着替えると自室を出て階段を降りた。
いつもなら聞こえるリズとパティの賑やかな声がない事に、少々の不安を感じつつも
渇きを訴える喉を潤すため、キッチンへと向かった。

何故かふらつく足取りに、キッドは首をかしげる。

(…頭を打ったせいか?)

ようやくキッチンにたどり着き、綺麗に整頓された食器棚からグラスを一つとって、
冷蔵庫から良く冷えたミネラルウォーターを取り出す。
グラスに注がれる液体はとても美味しそうに見えた。

注いだ水をゆっくりと飲み干すと、キッドはふぅと溜息をついて、椅子に腰掛けた。
随分と疲れやすく感じる。
体力も筋力も落ちている感じがするのだが、そんなに長く寝ていたのだろうか。
気を失ってから、今日で何日目なのだろうと思い、カレンダーを見上げる。

「任務に出たのは…何時だった…?」

2〜3日前任務で家を出る前に見たカレンダーの月が、替わっている。
カレンダーを見つめながら記憶を辿るが、激しい頭痛に見舞われた。
ズキズキと痛む頭を抱えながら、少しずつ感じる違和感にキッドは戸惑った。

「…頭が…痛い…」
「キッド!何してるんだよ…。お前頭打って倒れたんだから、急に起きてきたらダメだろ!」
「リズ…」

項垂れていた状態から、声の元を辿れば、随分と懐かしく感じる相棒の片割れが心配そうに寄ってきた。
遅れてもう一人。

「お前達、…ちゃんと無事だったんだな?」

キッドの、安堵の表情と声に、リズとパティの顔が一瞬だけ曇る。
すぐに元に戻っため、キッドには気づけなかっただろう。

「キッド君、心配しすぎだよ〜。
それよりも、頭打っちゃってるキッド君の方が心配なんだから。もう少し、寝ていよ?ね?」

キッドの体を支えるため、リズとパティが両脇に立つ。

「お前達…」

体を支えられながら、キッドは二階の自室へと戻る。
感じる違和感は拭えないが、今は頭痛に耐える事が先に思えた。
いつかこの違和感を解消しなければ気は済まないが、
逆にその正体を突き止めたとき、キッドは自身が壊れてしまうような気もしていた。
こんな事を感じたことは今まで無かった。
恐怖を感じることなど、何も無いはずなのに。今感じる見えない何かが恐ろしい。

自室に戻り、ベッドに身を横たえる。
パティが上掛けをかけ、リズがキッドの顔を覗き込みながら問いかけた。

「今、食べるもの持ってくるから。
暫く食事してないし、オートミールでも作ってくるから、大人しく寝てるんだよ。」
「あぁ…」

普段の食事はほぼ壊滅的な出来となるトンプソン姉妹だが、リズのほうは病人食だけはそれなりに作ることができる。
スラム生活時代、パティが体調を崩したときに作っていたのだろう、とキッドは考えている。
もし常食を作ると言っていたならば丁重にお断りしたいところだったが、
オートミールと聞いてキッドも安心した。
けれど、続くパティの言葉にキッドの心は凍りつき、表情は恐怖のため蒼白となった。

「そうだよキッド君!ちゃんと"いい子"で寝てないと、"おしおき"しちゃうんだからね!」

パティの何気ない一言に、キッドは飛び起きるようにして体を起こし、
ぽんぽんと上掛け越に体を叩くパティの手を振り払っていた。

「触るなっ!!!」
「キッド!」
「キッドくん?!」

鋭い拒絶と、本気の力でパティを振り払ったキッド。
リズもパティも驚き、キッドを見つめ返す。

「…あ…オレ…?……」

突然の事にキッド自身、驚いてパティを叩いた手を呆然と見つめた。
そして、ふとパティの手を見やる。
容赦ない力で叩かれ、パティの手は赤く腫れていた。

「パティ…すまない!すぐに氷を…」

ベッドから足を降ろそうとするキッドを、リズが止めた。
パティも優しく上掛けをかけ直す。

「良いよ。大丈夫だ。キッドは寝てろ。
きっと、まだ疲れてるんだ。たくさん寝て、食べるもの食べれば元通りになる。」
「しかし…」
「気にしないでキッドくん。こんなの何でも無いよ。」

自分自身がパティを拒絶したことに、戸惑いと罪悪感を感じて、キッドの表情は曇る。
加えて、パティの言葉に感じた恐怖と嫌悪感に、知らず瞳に涙が溜まった。
瞬間的に感じたこれ以上ない恐怖と激怒と屈辱を、キッドはどう説明して良いか分からない。
言われるままベッドに埋まるようにして体を横たえ、不安気に姉妹を見つめた。

「…オレに、一体何があった?
本当に、落石に遭って戻ってきただけなのか?」
「キッド、とにかく眠った方が良い。起きたばかりで疲れてるんだよ。
頭も強く打ったみたいだし、暫く安静にしてるほうが良い。」

キッドの問いかけに、リズは"頭を強く打った"と強調して、眠るよう促した。
ベッドサイドの水差しから、伏せてあった綺麗なグラスに水を注ぎ、キッドに手渡した。

「ほら、飲んで。少し落ち着くと思うから。」
「……ありがとう…」

特に断る理由も無く、キッドはリズから貰ったグラスを受け取り、注がれた水を半分ほど喉に流し込んだ。
余った分はそのままリズに戻し、キッドは申し訳なさそうにパティを見つめた。

「パティ、本当にすまない。オレは…どうやって詫びたら良いのか…」
「大丈夫だって!キッド君は心配性だなぁ。ちょっと赤くなっただけで、なんともないから。」

キッドの前で手をヒラヒラと振ってみせるパティ。
その様子を見てすこしだけ安堵したのか、キッドは浅く息を吐いた。

「さ、あたしらは下に居るから。
無理して起きるんじゃないよ。何かあったら呼んでくれれば良いから。」

ついでに食事も準備してくる、と姉妹は部屋を出て行った。
キッドは二人の背を見送って二人の気配が消えると、視線を天井へ向けた。
何故か急に眠たくなり、ゆっくり瞬きをする。

考えなければならないのに。けれど、何を?

自問自答するが、考える前に、キッドは瞬きの途中で深い眠りへと落ちていった。





「偉かったね、パティ。手、見せてみな。」
「…っ……こんなの…っ………へいきっ」

腫れ上がり、既に赤からどす黒いような青へと変色してしまっているパティの手。
死神の本気の力で叩かれれば、いくら体を鍛えているとは言え、ダメージは大きい。
骨が砕かれなかっただけマシだ。
キッドに叩かれた時、咄嗟に、力に従って腕を流していなかったら、
パティの腕は二度と使い物にならないところだったかも知れない。
腕を見せることを拒むパティに、リズは泣き出しそうになりながら、パティの頭を撫でる。

「頼むから、お姉ちゃんを困らせないで。」

そんなリズの表情に、パティはしぶしぶ手を出した。

「骨は…大丈夫そうだね…とりあえず、アイスノンで冷やして。
後で、シュタイン博士のところへ行って診て貰おう。」
「キッド君を放っておけない。」

手の痛みに耐えながら、パティはリズに告げる。
表情が歪むのは、手が痛いからだけではない。
自分の不用意な発言が、ノアから受けた陵辱の記憶をフラッシュバックさせてしまっただろう事が、
容易に想像できたからだ。

パティは唇を噛む。
そんな姿を見て、リズはパティを抱きしめた。

「大丈夫だよ、パティ。さっきキッドに飲ませた水、
もしもの時のためにって死神様から貰った鎮静剤が溶かしてある。
死神用の特別製。あれ飲んだら、6時間は起きないって言ってたから。」
「おねーちゃん…アタシ……悔しくて、苦しくて…どうにかなりそうだよ。」

涙ながら零れ落ちるパティの言葉に、リズの鼻の奥もツンと痛みを訴える。
リズも、キッドを見るのが辛い。けれど、これは死神様からの頼みでもある。
もしもの時はキッドを守るのが姉妹の役目。
目の前で、まんまとキッドをノアに攫われた姉妹が、今、出来ることは、
キッドが落ち着くのを見守ることくらいだ。

もし、あの時もっと力があったなら。
後悔は後を絶たない。
だから、キッドが囚われている間、ずっと鍛錬を続けてきた。
体が壊れてしまう、限界ギリギリまで。

「…次にアイツに会った時。アタシはアイツを殺す。」

リズはパティの呟きを聞きながら、ただ妹の体を抱きしめることしか出来なかった。







デス・シティー帰還後を勝手に妄想。

遂に15巻が発売されましたね!!
今回はキッドくんの出番がちょろっとしか無かったみたいですが、
次巻はなんだかオン・ステージな雰囲気満☆載!
とにかく楽しみであります!
(この捏造っぷりを実感する日も刻々と近づいていて、冷や汗ものです。)