雪崩


あれから、豪に大きな変化はなかった。
てっきり烈に対する行動が粗野になったり、無視されたりするのかと思っていたが、
特にいつもと変わることはなかった。
いつものように通学して、帰りはジュンを連れ帰る日が多い。
塾へいく烈を玄関で送り出し、帰宅する烈を待っている日もあるが、先に寝ている日もある。
いつも通りの毎日を過ごしていくうちに、烈自身も、あの日の豪は烈自身が見せた幻ではないか、と感じるまでになっていた。
それほどに、豪は普通だったし、幻を作り出してしまってもおかしくないほど、
烈は豪に抱く想いに歯止めが利かなくなっていた。

繰り返される毎日に、つい溜息が多くなる。
両親も、友達も、もちろん八田も、豪ですらそんな烈を心配した。
周囲には何でもない、と伝えるものの、どうすればこの状態が改善されるのか
わからないまま時間だけが流れていく。

「烈兄貴、本当に大丈夫かよ?」
「ああ。大丈夫だよ。」
「兄貴はそう言ってる時が一番心配だからなー。」

烈のベッドの上を我が物顔で占領しながら、豪が烈の背中を見つめる。
冬の定期考査も近くなり、豪が烈から一年前のテストを借り受けに来たのだ。
本当は豪と二人きり、部屋に居るのは気まずいが、かといってテストを渡さないのも可笑しい。
仕方なく烈はテストを捜し始めたのだが、先ほどから豪の視線が気になる。

「豪…捜しておくから、お前自分の部屋で待ってろよ。」
「えー、良いよ、別に。俺待つし。」
「そうやってダラダラしてる間に宿題とか復習とか、やる事あるんじゃないのか?」
「烈兄貴が塾行ってる間に終わらせたよ。」

どうやら梃子でも動く気のない豪を早く部屋から出すため、
烈も引き出しをひっくり返す。
いつも綺麗に整理している引き出しは、こういうときに限って捜し物が出てこない。
若干苛立ち始めた頃、ようやく目当てのテストを見つけた。
点数も確認するが、一応八割以上は正解している答案で、烈自身もほっと胸を撫で下ろす。

「ほら、見つけたぞ。」
「おっ!やりぃ!!ね、烈兄貴、ついでに勉強教えてよ。」
「…嫌だ。ジュンちゃんに見てもらえば良いだろ?」

烈の言葉に、豪がベッドから起き上がる。

「ジュンは教え方下手なんだよ。やっぱ烈兄貴でないとさ〜。」
「お前は理解が遅いから、僕が嫌なんだよ。受験シーズンに入るし、お前に構ってる時間はないの!」
「なんだよ、烈兄貴のケチー!」

起き上がった豪の前にテストを突きつけて、烈は豪に退室を促す。
が、そこへ丁度良くケータイが鳴った。

「……誰?」

机の上に放っておいたケータイのディスプレイを見ると、ブレットからだった。

「あー…、ブレットだ。」
「出ないの?」
「…後で掛けなおすよ。」
「出れば?」

鋭い眼光で烈を見上げてくる豪の言葉は、命令形に近い。
豪から感じる怒りの雰囲気を感じ取り、烈は電話に出た。
とにかく早く豪を部屋から出したかった。
そうでなければ、烈自身が何を言い出すか分からない。

「…Hello?」
『Hi、レツ!元気だったか?』
「前回の電話からそんなに時間経ってないだろ?」
『そうかな?レツからは電話してこないから…。
俺はイチジツセンシュウの思いで待ってるって言うのに。』
「Wow,一体どこで覚えたのそんな諺?」

暫く豪の方を見ずに会話を続ける。
後で問い詰められることが面倒だから、なるべく使うように心がけている英語も極力使わない。

『ところでレツ、前言っていたガイドの件だが。』
「あぁ、日程決まった?」
『明後日お願いしたい。』
「OK.時間と場所は?」
『受け入れ先の大学で一通りの説明を受けた後になるんだが…実は詳しい時間までは分からないんだ。』
「じゃあ、決まったらメールしてよ。」

ブレットとの会話に区切りが見えたところで豪を盗み見る。
だが、豪は烈から受け取ったテストの問題を眺めているようで、こちらは気にしていないようだ。
それならそれで良い、と烈は少し安堵して、少し世間話をした後、ブレットとの通話を終了する。
通話終了するタイミングを待っていたかのように、豪が烈に声を掛けた。

「ブレットが何て?」
「例の、ガイドの件日程が決まったからって。」
「…烈兄貴、今更ブレットを案内する意味って何?」

深い青にも見える一対の瞳がじっとこちらを見上げてくる。
その様子に烈は飲まれてしまいそうになる。
深い深い、仄暗い奥底から何かがゆらゆらと這い出て来るような、そんな恐怖感がある。
烈は喉がカラカラと乾いて、声が上手く出せなかった。

昔からお化け物は苦手だが、今でも苦手なことは変わらない。
ホラー映画に良くある、嵐の前の静けさとでも言うのだろうか。
得体の知れない何かが迫ってくる感じがして、恐怖に体が竦む。

「ぼ…僕が……知るわけないだろっ!ブレットに聞いてくれよ。」

何とか言葉を搾り出すと、ケータイを握り締めてデスクチェアに座る。
否、座るというより崩れ落ちると言った方が近い。
なんとか椅子に身体を預け、豪に背を向けるが、その後へ追い討ちをかけるように、
豪の言葉が追いかけてくる。

「八田の次はブレット、ブレットの次は…?シュミット?ミハエル?」
「豪…?お前…何言ってるんだよ?」
「…分からない?」

本当に、何が言いたいのか、烈に何を伝えようとしているのか。
さっぱり分からずただ詰問されることに、烈自身苛立って、背けたはずの視線を、豪へ向ける。
振り返ると、テスト用紙の影から、豪はじっと烈を見つめていた。
その視線が何故だか怖いと感じてしまう。

部屋を、沈黙で支配されることが厭で、烈は言葉を搾り出す。
何とか返した言葉は震えていたかも知れない。

「わから…ない…」
「八田とは、毎日居て気が楽?」

出口の見えない問答に、結論のない会話、烈はここ数日の件もあり、
何かが弾けるように叫んでいた。

「…豪!いい加減にしろよ?!何が言いたいんだっ!
それに…ちゃんと"八田先輩"って呼べって何度も言ってるだろ?」

それとも、年上の八田を呼び捨てにするなら、僕の事も呼び捨てにするのか?と言葉に出してしまい、
言ってしまってから烈の顔色が変わった。
そんな烈を知ってか知らずか、豪がゆっくりとベッドから立ち上がる。
いつかの帰り道のように、すっと烈の隣まで歩いて、そして耳元で囁く。

「じゃあ、八田と同じように、"烈"ってそう呼べば、満足?」

豪の吐息が耳朶に触れて、烈の全身が総毛立った。
固まる烈を見下ろして、豪がゆっくりと離れる。

「明日から、テスト勉強見てくれよな、烈兄貴。」

動けない烈を嘲笑するように豪は言うだけ言って、部屋を出て行く。
暫くした後、烈はそのまま机に突っ伏して拳を握り締めた。

「もう…僕………なんで…こんなっ…」

豪は気付いているのかもしれない。
烈の浅はかな気持ちに。
だから、そんな烈をあざ笑うかのように、こうして振り回すのだろう。
情けなくて泣きたくなるのに、豪に『烈』と呼ばれたことが、こんなに嬉しいとは思っていなかった。

烈は、知らないうちに八田にすら嫉妬していたのかもしれない。
豪が親しげに会話し、名を呼ぶ人物だから。

もう、烈の感情は弾ける寸前まで来ていた。
膨らみ過ぎた風船のように、もう入れようとしても空気が入らない。
無理に入れれば破裂して、壊れてしまうだけ。
なるべく豪との接触を断たなければ、もう近いうちに破裂してしまう。
そうなれば、兄弟ではいられなくなるだろう。
弟に対して恋心を抱く兄など、豪にとっては気持ち悪い存在だろう。
豪は、烈から離れていく。
漠然と、そんな予感がして、烈は怖くてしかたなかった。



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